館――幽霊奇談 そのさん

 

 よく眠れなかった一夜を明かして、重い目蓋を擦りつつ食堂へ行った。
「おはよう」
  爽やかな大石の挨拶に元気なく応える。
「おはよ……」
  くわあ、とでかい欠伸をする俺に、大石が首を傾げた。
「寝不足か? 眠れなかった? 寝心地悪かったとか……」
「いやそうじゃないんだが……」
  また欠伸をひとつ。勝手に出てくるんだから仕方ない。
「変なものを見て――その」
  言って信じてもらえるか逡巡したが、昨日の夜の大石の含みを持った言葉を思い出した。きっと――いや、絶対このことに違いない。
「女を見たんだよ」
  おおっと感嘆の声をあげたのは、大石ではなく菊丸と桃城だった。
「来て一日目で洗礼を受けたかー、運がいいね、乾」
「どーでしたか乾さん、彼女」
  やっぱり周知のことだったのか。分かっててみんなで黙ってやがったんだな。
  文句を言っても仕方ないので、とりあえず正直に思ったことを口にしてみる。
「どうもこうも……あんなの初めてだよ。幻覚かと思った」
「その割りに随分落ち着いてんじゃん」
「ちえっ、オレもっと慌てんじゃねーかと期待してたんスよ」
「オレは乾は平気だろうと思ってたね!」
「……楽しそうだな、おまえら」
  ちょっとげんなりして椅子に座ると、大石がコーヒーを差し出してくれた。口をつけると香ばしい匂いが漂ってくる。いい豆を使ってる。濃くて程よい苦味で美味かった。
  説明はしてもらえるんだろうな、と執事長を軽く睨むと、俺の向かいの席に腰を下ろしながら、苦笑しながら話し出した。

 夜な夜な、誰の部屋ともなく、女の幽霊が現れるのだという。すうっと姿を現して、同じようにすうっと消えていく。
  そして何故か、手塚の部屋にだけは現れない。
  だたそれだけなのだ。別に害を与えるとかそう言ったことは一切ない。
  だが不気味だ。これじゃまともなやつは辞めていくだろう。辞めないのやつは余程度胸が据わっているか、おかしいやつか、どちらかに違いない。
  自分でそう結論付けたくせに、続けていけそうか? との大石の問い掛けに、問題はないと俺は答えた。
「大丈夫なのか、乾」
「うーん、まあびっくりはしたけど……久々に心臓止まるかと思うくらい驚いた。でも何かされるわけでもないしなあ。辞める理由にはあまりならない」
  多分俺は「おかしいやつ」の部類に入ってしまうのだろう。強がりでもなんでもなく、事実、辞めようという気にはまったくなっていないのだ。
  大石は呆れたように笑った。
「強いなあ」
「大石もだろう」
「俺も最初は怖かった。でも慣れだよ。こんなことで仕事を投げ出したくなかったんだ」
  真面目そうな彼らしい。
  いつから出るようになったんだと聞くと、菊丸が長く唸り声をあげた。
「たーしーかー……、結構最近? オレが入った頃はまだ出てなかったんだ。うん、そうだ。今いるやつらはだいたいそうだよ、出る前からずっと働いてる。新人が来てもだいたい出会った初日にやめてくんだよなー」
「そうそう、根性ないっスよねえ」
「あ、でも、海堂。海堂はねーあいつが出るようになった後から入ったんだけど、もう三年かなあ、続いてるよ。偉いね」
  菊丸の中の「結構最近」は数年単位らしい。突っ込みたくなったがあえて別のところをつついてみる。
「菊丸も続いてるだろう?」
「んっふっふ、オレはねーあんま気にしないからさっ」
  果たして自慢気に言えることなのか疑問に思ったが、あえて追求しないでおこう。
「そう言えばその海堂くんは?」
「早起きだからもう朝食済ませて庭にいるんじゃないかな?」
「もう?」
  壁にかかっている時計を見るとまだ七時半だ。健康的だなあ。俺は朝に弱いタイプなので、実はこの時間でも眠かったりする。しかしここで働くからには周りの時計に合わせなければならないだろう。慣れだ、慣れ。
  不意にそろそろかな、と呟いて桃城が立ち上がった。
「乾さんはパンとご飯とどっちにします? 昨日の晩飯うまかったっしょ。タカさんの料理は絶品っスよね」
「じゃあご飯で。タカさんって……河村さん?」
「そっス。じゃ頼んできますね」
  扉のついていない隣室の厨房へと桃城が消えていった。
「わざわざリクエストに応えて米かパンか選べるのか? 毎日?」
  大石はにっこり頷いた。
「タカさんはそういうの好きなんだよ。それぞれ合ったサイドメニュー作ってくれるし」
「オレは朝はパン食派ー。ベーコンとチーズ入りのスクランブルエッグとアスパラとじゃこのサラダがついてきました」
  何故か威張るように胸を張る菊丸に、俺は冷静に返答する。彼の前に並んだ皿を指差した。
「見れば分かるよ」
「おっ、言うねえ」
  菊丸は何が楽しいのか、行儀の悪いことにフォークを回しながらけらけら笑った。
「そういうエンリョのなさそうなの、オレ好きよ、乾。ついでに言うと河村さんじゃなくってタカさんって呼ぶとタカさんも喜ぶと思うな」
「タカさん……?」
「そうそう」
  疑うわけではないが、あとでちゃんと本人に了解を得ておこう。
「お待たせしましたー。オレと大石さんと乾さんのご飯でーす」
  ぼんやりしながらコーヒーをすすっていると、桃城が大きなお盆を携えて戻ってきた。
「オレもう食べ終わっちゃうよん」
「エージ先輩はご飯の時だけは早いっスからねえ」
「なァんだよ桃、だけってのは、だけって」
  ぶーっと頬を膨らませた菊丸に、 大石がにっこりフォローした。
「その代わり晩御飯は早く来てタカさんの手伝いしてるもんな」
「まあね」
  ……おかあさんと兄弟。ぽんっと頭に浮んだのはその構図だった。ついでに言うと河村さんがおとうさんだろうか。
  次々と並べられる皿は栄養バランスが見事にとれた和食だった。こんなに手の込んだ食事は本当に久しぶりなので、ついつい箸が進んですぐに平らげてしまった。昨夜の晩御飯もそうだったが、みんなが絶賛するだけあって実に美味かった。
「そういや越前さん、俺まだ会ってないんだけど」
  食べ終わった皿を重ねながら、大石に尋ねる。しかし反応したのは菊丸だった。
「あーおチビね」
  ……仮にも主人に向かっておチビとは。大石が咎めるかと思ったがいつものことらしい、苦笑するだけで黙っている。
「オレも三日に一回顔合わせればいい方だよ」
「え、そっスか? オレ毎日結構会ってますよ? 庭歩いてたらしょっちゅう」
「サボリ?」
「え? いやいやいや、休憩中っスよー。やだな、大石さんー」
  わはは、と焦ったような笑い声をあげるので嘘だと丸分かりだ。それでも憎めないのは桃城の性格のなせる技なのだろう。大石は呆れたように溜め息をつき、菊丸もニヤニヤしているだけだ。
「ま、そのうち会えるよ、気長にな……」
  昨日も同じことを言われたような気がするが、そんなに捕まらないのか、越前さんってのは。いわゆる神出鬼没なのだろうか。まだ見たこともない主人の姿は想像もつかない。おチビと言われるのだから背は高いわけではなさそうだが。
  テーブル上を大石が主導となって片付けながら、俺は気になる越前さんの情報を少しでも取り入れておこうと取り留めない疑問を繰り出した。
「どんな人なんだ? 彼は」
「どんなつってもなー」
「生意気で目つき悪くてスカしててお世辞にも性格がいいとは言えない」
「こら、桃……」
「でもオレも同意見だなあ。――そういやおチビも平気なんだよな、彼女。出るようになった後から来たんだぜ、なのに怖がる素振りもなし。やっぱ変わりもんだしなー」
「越前さんはいつくらいに来たの?」
「うーん」
  テーブルを拭く手を止めて菊丸が顎を軽く上げた。
「海堂と同じくらいだったかなあ、三年くらい前だったと思うよ」

 

「不二を紹介するよ」
  朝の診察が終わって、手塚さんの部屋を辞去してすぐに大石にそう言われた。
「もう一人の執事さんの、だっけ?」
「そう。今さっき帰ってきたんだ、部屋にいるはずだから」
  歩き出す大石についていった。
  不二か……。何処かで聞き覚えがある名だと昨日も思った。しかし思い出せる気が微塵もしない。会えば分かるだろうか……。
「昨日も言ったっけかな。ここが不二の部屋になってる」
  乾いた音を立てて大石がノックをすると、「はい」と多少高めの声が返ってきた。
「大石だけど、いいかな?」
  どうぞ、とまた声が返ってきた。その色調に聞き覚えのあるようなないような。
  心持ち眉間に皺を寄せたまま、彼の私室へと足を踏み入れた。
  大石が僅かに身体をずらして、俺と不二さんの間を取り持つような姿勢を見せた。
「大和様から聞いてたと思うけど、新しく入ってきたお医者様の乾貞治さん。乾、彼が執事の不二周助」
「はじめまして――……」
  礼をしながら、失礼にならないように彼の顔を伺い見た。
  ああ、やっと、……柔らかい顔立ちに、忘れていた記憶がやっと掘り返された。何処かで知っている名前だというのは間違いではなかった。掠れていたメモがはっきり浮き上がってくる。
  不二周助――高校のころのクラスメートだった。特に仲が良かったわけではない。数人の共通の友人を介して軽い会話をした、それだけの、いわば知人といったところだろう。
  しかし偶然だ。高校を卒業して大学を途中でスキップして短い研修を終えて、こうして想像もしなかった場所で再会するとは。
  不二の方も随分驚いたようだ。記憶にあるいつも笑みを浮かべている顔が、きょとんとしている。タイを結んでいたらしい手を止めて、俺の顔を凝視してきた。
「あ、い――乾……?」
「……うん……不二?」
「ああ……そうか、乾……だったんだ。通りで聞いたことあるはずだよ。――でも、まだ在学中じゃないのか、医者だなんて……。医学部は四年より長いだろう」
「飛び級させてもらったんだ。試験受けたら思いのほか好成績で。研修も半年くらいだから、実績はないけど」
  事実、研修を終えたばかりのぺーぺーだが、有り難いことに教授に目をかけてもらって――良い意味にしろ悪い意味にしろ――こうして職にもありつけている。そう言って笑ってみせると、不二もようやく表情を崩した。
「知り合いだったのか?」
  状況が読めるはずもない大石が当然の疑問を口にした。
「高校の同級生だったんだ」
  完結に不二が説明すると、大石は目を丸くした。
「へえ……すごい偶然もあるもんだな」
「そうだね。ちょっとびっくりした。乾って医者になるより学者になるんじゃないかと思ってたからさ」
「学者……?」
「怪しげな研究してるようなの。秘密基地とかに潜伏してさ」
  クスクス押し殺した笑いに、初めて不二が冗談を言っているのだと分かった。こいつこんな性格だったかなと思いながらも、
「医者なら人体実験ができるだろう?」
  俺も冗談のつもりだったのだが、不二と大石が真顔でお互いを見遣って、
「ふうん」
  と嫌な相槌を揃って返してきた。
  ……俺は冗談のセンスがないらしい。ちょっとだけ傷ついた。

 

「いいですよ」
  手塚さんのはだけさせた着物の襟を軽く合わせて手を放した。聴診器を鞄の中に仕舞い、次は右腕を出すように指示する。手際よく血圧を測る。
  脈拍は正常、血圧は少し低いが常識の範囲内だった。
  今朝診察に来たとき、手塚さんはまた眠いのだろうか、ぼんやりしていた。しかし今は昼ともなるので幾分はっきりしているようだった。思えば通常状態――と言ってもいいのだろうか――の手塚さんと向き合うのは初めてではないだろうか。
「最近発作など起こしましたか?」
「……最近、というか、そうだな、一月くらい前に」
「そうですか……。他に何か体調が悪かったりなどは?」
「特にない」
  安定しているようだ。もともと無理さえしなければ死に至ることはない病気だ。これだけ大切にされていれば滅多なことが起こるはずもないだろう。無論、発作はイレギュラーに発生するものだが、処置が正しければ問題はない。
  バンドをはずした腕を擦りながら、手塚さんは背凭れに身を倒した。
「、いぬ――……」
  俺の顔をじっと見据えたまま、口篭もる。ここまで堂々と語尾が消えるってのも珍しい。しかし、まだ名前をちゃんと覚えてくれてなかったのか……。がっくりしつつ、もう一度名乗った。
「イヌイです、手塚さん。乾貞治」
「すまない、乾先生」
「なんでしょう」
「――ここはどうだろうか。つまり、仕事場として。何か不具合などあったら、大石だけじゃなく俺にも言ってくれると有り難い。改善に努める」
「ああ……」
  主人として気になるのだろうか。ちょっと呆けた人かと思っていたが、意外と気遣いを見せてくれる。
「不具合というか……」
  当然手塚さんも知っているだろうから、正直に口にする。
「昨夜、俺のところに来たんですよ、女性の幽霊が」
  手塚さんはあっさりと頷いた。
「俺は会ったことはないが――そうか、君のところには来たのか」
「残念ですか?」
「残念――とは?」
「深い意味はないですよ。ちょっと手塚さんの口ぶりがそんな気がしただけです」
「……人並み程度に好奇心はあるんでな。俺のところにだけ姿を見せないのは何故だろうとずっと思っていた」
  ごもっともだ。気にならないわけがないだろうが、残念ながらその答えを俺は持っていない。
「単純に考えると手塚さんになにか心当たりがあるか、――そういうものをまったく見られない体質だとか」
「そういうの――……ああ」
  彼は拳を口元に当てた。どうやら笑った、らしい。
「なんと言うのだろうな……夢物語みたいな」
「ファンタジー?」
「それだろうな。見たことのない俺には別世界の話のようだ。担がれている気分ですらある」
「でも実際俺は見ました。この目で」
  担がれてると言う割りに、手塚さんの物言いからは不快感などを感じない。強いて言うなら諦めのようなものを感じるが、そこまで悲観そうでもない。
「対策を講じるべきなのか、俺には判断がつかない」
  俺が部屋から出て行く直前、諦めの延長のようにそう言ったのが印象的だった。

 

 元来俺は好奇心が旺盛だ。気になることはとことん調べる。そのために時間がとれるこの館での仕事を引き受けた。そうしたらまるでおあつらえむきに謎が降って来た。神の思し召しに違いない、と信じてもいないことを思う。これはもう俺に調べろと言っているようなものだろう? 
  現実的非現実的はこの際問題ではない。何故、どうしてが問題なのだ。疑問というのは俺の好奇心をピンポイントに刺激してくれる。
  夕飯後、俺はちょっと大石に絡んでみた。この館の詳しいことならこいつが一番だろうと踏んだからだ。食堂で食器を磨く大石の隣りに座り、あれこれ質問をしてみる。
  彼女が出るようになった原因は――正確にいつから出るようになったのか――きっかけはなかったのか――誰かの悪戯ではないのか――。
  いずれも、大石は誠実に返答してくれた。
「原因もきっかけも、特に思いつくことはないな……。いたずらかどうかは最初に確かめたよ。出るようになったのは、三年前からだ」
「三年も前……」
  三年、という言葉にひっかかった。
「確か、越前さんがここに来たのも三年前って言ってなかったか?」
「――――」
  大石は眉間に皺を寄せて、とても厳しい表情をした。磨いていた食器をテーブルに置いて俺の顔を覗き込むように睨んできた。
「確かにそれは事実だが、関係ない。乾は越前様が原因だと言うのか?」
「そういうわけじゃなくって……」
  大石の静かな圧迫に気圧された俺は、否定の言葉を慌てて口にした。忠誠心に溢れる彼は、ちょっとでも己の主人が疑われるのが嫌なようだ。
「事実を聞いただけだよ……。深い意味はないし、そこまで俺も短絡的じゃない」
「……ならいいんだ」
  ふっと眉尻が下がり、緊張感が緩んだ。また皿磨きに取り掛かる。
  ふむ、だんだん大石の逆鱗の在り処が分かってきたぞ。頭の中で重要事項の欄にメモを残しておいた。
「あ」
  また一つ思い出した。
「海堂くん……海堂くんも三年前にここに来たって」
「海堂――? ……ああ、そう言えば越前様がいらっしゃったのとほぼ同時期だったけれど……」
  今度は怒りではなく、苦笑をひらめかせた。
「でも原因は海堂じゃないと思うな……」
「どうして」
「彼、幽霊とかおばけとか、超常現象系ってもの凄く苦手なんだ」
「苦手?」
「ああ。初めて海堂が彼女に会った時、凄かったよ。真っ青になって俺の部屋にやってきて、ブルブル震えながら変なのがいるんですって言って飛びついてきて。いつも毅然としてるのに、あの時だけだったな、海堂が取り乱したのを見たの」
  これまた意外な話だ。幽霊話とかにまったく無関心そうなのに。
「苦手なのに、辞めないんだな」
「負けず嫌いな子だからね。自分に落ち度や失敗がない限り、私情で辞めるのは悔しいらしい。英二――菊丸がそう言ってた」
「菊丸は海堂くんと仲がいいのか? 海堂くん、そういうこと喋りそうにないけど」
「英二は人懐っこいから。人から自然に話を聞きだすのが得意なんだよ、本人は無自覚だろうけど」
  何処か自慢するような響きに俺は知らず目を瞠る。態度自体は変化は見られないが、本当に何処か――あえて言うならまとう空気がそう思わせた。
「大石は菊丸と仲がいい?」
「えっ」
  何気なく出た言葉だったが、思いのほか大石のツボをついたらしい。皿を取り落としそうになって慌てて抱えるなど、目に見えて焦りだした。
  ――この反応はいったい……。
「な、なんで!?」
「だって名前で呼ぶし……」
「あっ……こ、これは癖で……。その、幼馴染なんだ」
「ふうん……」
  幼馴染なのか。通りで、と納得したが、大石の妙な焦りには得心がいかない。突っ込むのは野暮だと分かっているが、今問いただしてもちゃんと答えるか怪しい。まあ追々聞いてみるか。
  ――昨日から後で聞いてみようだの後々確かめようだと思うことが多いな、と不意に自覚した。思いのほかここで永く働きたいと思っているのだろう。
  いい傾向だ、と自分自身ににんまりしながら、大石の肩を叩いた。
「ところで、海堂くんはこの時間はもう部屋かな?」
「海堂? ……は、」手を止めて、壁掛けの時計を見る。「また庭にいると思うけども」
「そうか、ありがとう」
「どういたしまして……。行くのか?」
「ちょっとね」
  不思議そうな大石を残して、俺は庭へ向かった。
  ――と言っても庭は広い。とてつもなく広い。しかも表と中庭があったりする。ここはひとつ勘で、中庭へ足を向けた。
  ふかふかの毛足の長い絨毯が敷き詰められた廊下を抜け、大理石が磨き上げられた通路に入り、――だんだんこの世界に慣れてきた自分が怖くなりつつ――でかいガラス窓を開けて中庭へ出た。周りを一回見回したが、姿はない。
「かいどーくん、いるかー?」
  わざと間延びさせて、さほど大きくない声量で呼びかける。すると、ガサガサッと葉擦れの音がした。
「い、乾――さん?」
  何処からともなくおどついた低い声が降って来た。中庭に来て正解だったようだ。
「まだ仕事中? よければ話があるんだけれど、ちょっと姿見せてくれないかな」
  しばらくの沈黙の後、再び葉擦れの音と共に海堂くんが姿を現した。俺が向いている方向の右後ろからの登場だったのでちょっとびっくりした。
「あ」
  大股で近づいて頭に手を伸ばした。彼は一瞬びくりと身を震わせたが、あからさまに避けるのも手を払うのも躊躇われたようでそのままじっとしてくれた。
「葉っぱ」
  黒髪の隙間に入り込んだ、緑色の柔らかい葉を摘んで落とす。
「こんな時間まで仕事してるんだ……偉いね」
「ンなことより、話ってなんスか」
  警戒の解けない様子で、俺との距離をじりじり取りながら聞いてくる。動物に思うような微笑ましさを感じながら、取られた距離を敢えてそのままに、
「幽霊とかおばけとか苦手なんだって?」
  率直な言葉に、海堂くんはぐっと黙り込んだ。きつい相貌が見上げてくる。怒ったのは分かったが、俺は構わず話を続けた。
「でもさ……出てこなくなったらいいと思わないか?」
「出てこなく……?」
  鸚鵡返しに問い掛けてくる。チャンスだと思った。これは押せば絶対に折れる。折れさせる。
  もともと押しに強くない子のようだし、
「原因が分かれば対応策も自ずと出てくるだろう?」
「そう……スけど」
  戸惑いながら、こくんと首が上下に動いたのを見て、胸中で大きくガッツボーズ。
  ――幽霊退治の始まりだ。

 

2004/7/6

 

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