館――幽霊奇談 そのいち
「乾貞治様、でいらっしゃいますね」
落ち着いた男の問い掛けに、俺は神妙に頷いて見せた。
「主人が待っております。こちらへどうぞ」
優雅な動作で俺を導く男に従って、柔らかい絨毯を敷いた廊下を歩き始めた。
――おそらく彼は執事か何かだろう。白いシャツに黒いスラックスに腰巻きのエプロン。ギャルソン風の格好だが、まさか料理などを運ぶボーイが案内をするわけがない。きっとこの服装がデフォルトなのだろう。こういうのは、館の主人の趣味に違いない。
そしてこの男はこの館を取り仕切っている。この種の勘を、俺ははずしたことはない。勘と言うより観察力の賜物だが。堂々としているが押し付けがましくない動作、柔らかい言葉遣い、滲み出る落ち着きは自信の結果なのだろう。しっかり教育されてそれなりの評価を得て、それを自負している男だ。
嫌いではないタイプだ、という自分自身の勝手な評価に満足した。一緒に働いて過ごすのなら、嫌いなタイプよりは好ましい人間の方がずっと良いに決まっている。
豪奢な木彫りの扉を開けて通されたのは、相当広い応接室だった。
革張りのソファに座ることを勧められて、しばらくお待ちください、と言い残して、執事は部屋の外へ出て行った。
きょろきょろと周りを見回してみる。装飾品や家具の高級さは知識として知っているが、いまいち実感として沸かない。あまり立派なものばかりありすぎると、それが普通になって埋もれてしまい新鮮味とか驚きがない。
――乳白色の壁に覆われたこの馬鹿でかいお屋敷は、この界隈でも目立つ物件だった。持ち主が大企業の社長だか会長だかで、その酔狂な主人が孤児を引き取って養子にして囲っている、召使や執事が揃っていて、優雅な時が流れている隔絶された世界だと。
果たして、噂は事実だった。少なくともここは外の世界と違う空間のようだ。
どうしても君に頼みたいんだ――という研究医時代お世話になった教授に懇願されて、このお屋敷――大和家の担当主治医としてやってきた。衣食住保障の住み込み、働くのはこの屋敷の人間――主に主人の具合が悪くなった時。
向上心があったり働くことに命をかけているやつには生温いだろうが、俺にはとても魅力的な仕事だった。
研究心がないわけではない。寧ろ人一倍知りたがりというか、好奇心は旺盛な方だと自覚している。しかしそれが一方に制限されてしまうのが嫌なのだ。俺は様々なことに目を向けて研究したい。だから、自由な時間が多いと言うのは非常に魅力的だった。
業務はここの住人や主人の診察のみ――こんなので金が貰えるなんて信じられないくらいだ。
だが同時に疑念も沸き起こる。
たかが――言ってしまえばたかがだ、これしきのことで住み込みの医師を抱えるなんておおげさだ。主人は病弱だと聞いた。幼いころから気管支喘息を患っていて、いつ発作が起こるか分からない、危うい状態らしい。ただ、それは無理をしなければ、で、大人しくしていれば少なくとも死ぬことはないだろう。なのにこの大げさな対応。
果たしてここの主人というのはどういうやつなのか。
いつも余りあっている好奇心が更に刺激されるところだ。
落ち着いた色合いの着流しを着た男が、執事さんに付き添われて入ってきた。この人が主人なのだろう、眼鏡を掛けていて、硬質な雰囲気の端正な顔をしている。俗な言い方をすれば美形と言って差し支えないだろう。執事さんもじゅうぶん整った顔をしていると思ったが、彼はもっと華があるような気がする。……男性に向かって思うことではないだろうが。
男は俺の向かいの一人掛けのソファに座る。執事さんは用意してきた紅茶を置いて、当然のように男の後方に控えるように立った。
男は目だけで一礼した。眼鏡の奥の涼しげな視線が俺の顔を撫ぜる。
「手塚国光と言う」
低い声だ。声までも美形だな、この男。
「始めまして、乾貞治です……。……手塚さん?」
「……ああ」
主人は、俺が問い掛けの形で呼びかけたのに聡く反応してくれた。緩くソファに寄りかかりながら、溜め息をつくように手塚さんが説明をする。
「俺は養子なんだ。本当の主人の大和さんは……仕事でここにはいない」
「お仕事で」
「ああ、滅多に帰ってこないが……ここの主人は大和祐大氏だ」
主人は養子をとっている――この噂も本当だったのか。
そうなのかと納得すると同時に、疑問に思う。養子なら苗字も「大和」になっていなければおかしい。そう言ったことを、失礼にならないように聞いてみると、何故か彼は難しい顔をした。
「大和さんは、無理に大和家に縛ることはしたくないと言って……俺の他にももう一人養子がいるのだが、そちらにも元々の姓を名乗らせている」
「そうなんですか」
分かるような分からないような話だ。養子として引き取った時点で縛ることにはならないのだろうか。……そこあたりは本人たちにしか分からない何かがあるのだろう、深く追求することではない。
しかし、何を話して良いのか分からなくなって黙り込んでしまった。
……そうだ、仕事、仕事だ。主人の私情を追及することなど俺はしなくてもいいんだ。
問いかけようと息を吸った瞬間、何事もなかったかのように手塚さんが先に口を開いた。
「荷物の方は?」
「あ、……明日届くように手配しています。今日はさしあたって必要なものだけど。――その、私の仕事は……」
「それについては大石に聞いてくれ」
眼鏡のきつい視線が後方の執事さんへ向く。執事さんは心得たように頷いた。
「かしこまりました」
「俺は今日はもう休む。往診は明日で構わない」
言うなり、手塚さんはさっさと立ち上がって部屋から出て行ってしまった。俺は呆気に取られたままその姿を見送って、残された大石さんに縋る目を向ける。
「あの……」
「いいんです」
大石さんは苦笑しながら、テーブルの上の、一度も口をつけられなかった紅茶のカップを片付けだした。
「眠くていらっしゃるんですよ、手塚様は」
「……眠い?」
「はい。あの方は眠い時に――なんというか、周りが見えなくなると言うか。機嫌が悪いとか気に入らないことがあるとか、そういうわけではないんです。ちゃんと起きていらっしゃる時は、人並み以上に気をお使いになる方なんですがね」
「……そうですか」
変人。
俺の脳裏に浮んだ手塚国光の評価は、その一言だった。
やがてカップを片付け終わった大石さんは、改まって俺に礼をした。
「私が執事長の大石と申します。大石秀一郎。よろしくお願いいたします、乾様」
最後の呼びかけに、思わず鳥肌が立つ。様付けで呼ばれるなんてむず痒すぎる。
「その……様はやめて貰えませんか……」
「は、でも」
「なんかむず痒いですし……。貴方、大石さん、お幾つですか」
「はい、23になりました」
「じゃあ俺と同い年でしょう。呼び捨て――とは言いませんが同じ雇われの身ですし、せめてさん付けとか。丁寧語もちょっと苦手なんですが」
ここまで提案して、はたと気付いた。これはおそらく長年だろう、ここの屋敷に仕えている人にとって失礼ではないだろうか。新参者の俺が馴れ馴れしく同じ立場でいこうなんて、不躾だったかもしれない。
「大石さんがご迷惑じゃなければ……ですが」
遠慮がちに付け足すと、大石さんは何処か堅苦しかった表情を崩して、笑った。
「分かった、じゃあ乾って呼んでいいかな。俺は大石って呼び捨てで構わないから」
その言葉に安堵した。堅物そうに見えて案外柔軟性がある。ますます好感度が上がる。
俺は喜びを隠さずに頷いた。
「分かった、ありがとう、大石」
大石の表情は柔らかく、とても人当たりがいい。主人はちょっと掴めない人だが、とりあえず一人でも落ち着いて話せる仕事仲間がいるのは有り難いことだ。
「まず乾の仕事だな。基本的に朝昼版の三回の往診。発作が起こった時すぐ対応。その他ここの従業員の診察などを必要に応じて。それだけかな」
「――やっぱりそれだけか」
「……物足りないか?」
「いや、こう言っちゃなんだか、有り難いよ。他は自由なんだろう?」
「ああ、連絡の取れる場所に必ずいること、外出の際は声をかけること、を忘れなければ自由にしてもらって構わないよ」
はじめから聞いていた通りの条件だ。
「他に聞きたいことは?」
「聞きたいことというか――」
ちょっと戸惑いながら口を開く。
「こんな楽な――っ、と、うーん……」
失言だと思ってやめたが、適切な言葉が見つからない。大石がフォローするように俺の肩を叩いた。
「いいよ、楽な仕事だと思ってるんだろう?」
「……うん、楽な仕事であれだけの給料が貰えて、いいのかな、とは思う」
「――それだけ、大和様が手塚様を大事に思っていらっしゃるんだよ」
複雑そうな色を浮かべた大石は、何かを切り替えるように表情をいつもの笑みに変えた。
「屋敷内を案内するよ、他の仕事仲間も紹介しよう」
優美な動作で俺を促す。
好奇心が頭をもたげてこないわけではないが、問いただすのが無粋に思えた。そのうち分かる事もあるだろうと自分を納得させて、大石の後をついていった。
「――広いな、庭?」
「中庭だよ。表にも庭があっただろう? 気晴らしに散歩したりするのにちょうどいいと思うよ」
一軒の家の中に「散歩にちょうどいい庭」が存在するとは、贅沢な話しだ。廊下の全面ガラス張りの窓――壁と言ってもいいのだろうか――を開けて、大石が中庭へ降り立った。俺も続いて出て行き、改めて広さに感心する。
キョロキョロと見回した大石が、やっと何かを見つけたかのように軽く声を張り上げた。
「――海堂!」
大石の視線を追うと、バンダナをした男が植木に向かってしゃがみ込んでいた。彼はその声に素早く反応して立ち上がり、土で汚れたのだろうか、手を払いながら小走りにやってくる。
身長は俺よりは低いが、青年男子の平均身長よりは高いだろう。だが身体が細身なので、多少小柄な印象を受けた。
「なんスか?」
彼は俺の方に目線をちらりとやって気にする素振りを見せながら、大石に問い掛ける。
「昨日新しく人が来るって言ってただろう。こちら、手塚様を受け持ってくださるお医者様の乾先生」
まるで小さい子どもに言い聞かせるような大石の物言いに、ちょっと笑いたくなったが堪えた。だが、なんとなく分かる。彼がいくつかは知らないが、まだ雰囲気が幼い。おそらくは十代だろう、少年と言っても差し支えないように見える。
「はじめまして、乾貞治です」
自己紹介をして微笑みかけると、彼――海堂くんは真っ直ぐこちらを見上げてきた。その射抜くような目に何故か心臓が跳ね上がった。動物を思い起こさせるような、大きな目だった。その視線が、ひどく無防備に見えてなんだか落ち着かない気分にさせられた。
何かを、思い出しそうだった。
「海堂薫です。庭師を……庭の整備をしてます」
「へえ、庭師さん」
「はい」
「他には?」
「……他……? には、仕事はしてませんけど。これがオレの仕事っスから」
「いや、そうじゃなくて……」
ちょっとずれた会話の意味を、彼のきょとんとした表情を見て俺はようやく理解した。大石が俺と海堂くんの勘違いを指摘してくれた。
「庭師は海堂一人だよ。中庭も表の庭も、全部彼が綺麗にしてくれている」
「一人で――綺麗にしてるのか?」
こくりと海堂くんが頷く。
「っスけど」
さすがに俺も驚いた。なんと言ったって生半可な広さではない。総合すると屋敷の面積と同じくらいあるんじゃないかって思えるくらいの広さの庭――もはや庭園と言っても差し支えないだろう。
花などはないが、大小取り取りの植木植わっており、それをただ無造作に生い茂らせているわけでもなく、ちゃんと綺麗に形どって刈られているのだ。
思わず溜め息が出る。
「凄いよ、なんと言うか、根性あるね、海堂くん」
素直な感嘆を口にすると、海堂くんは不意に目を伏せた。
「……どうも、ありがとうございます」
ぼそっと低い声で呟く。俯いた首筋が、ほんのり赤くなっていた。
……これは照れているのだろうか……? ちょっと分かりにくいがおそらくそうなのだろう。
ああ、なんか、思い出した。
小さい時に見つけた捨てられた猫。じっと見上げる視線に耐えられなくて、走って逃げたっけ。俺はよくそういう現場に出くわす。捨て猫に遭遇したり、野良猫とじっと目が合ってそらせなくなったり、そういうことが多い。
それらと同種の、懸命に生きようとしている目だ、と思った。
ただ、野良猫を思わせるのはその目だけで、動作などは何処か洗練されている。言うなれば、「いいとこのお坊ちゃん」みたいな気がした。言葉遣いはぶっきらぼうだけど、立ち姿や首の傾げ方などが綺麗だったから。
「じゃオレ、まだ仕事ありますんで……」
「ああ、悪かったね、途中で呼んじゃって」
「……いえ、失礼します」
流れるような動作で踵を返し、また先ほどしゃがみ込んでいた植木の元へ戻った。
「――海堂くんて、どうしてここで働いてるのかな」
「……ん?」
「俺の気のせいかもしれないけど、彼、いいとこのご子息だったりしない?」
「――勘がいいんだな」
「当たり?」
「うん……。まあ詳しくは言えないけど、多分、自立だと思うよ」
「……ふうん」
軽い返事をしただけで、俺はそれ以上聞かなかった。大石が詳しく言えないというのだから、きっと問いただしても無理だろう。それに問いただす理由が、俺にはなかった。
次々と他の仕事仲間を紹介された。
館内の掃除や整備を担当している――使用人だと本人たちは言っていた――菊丸英二と桃城武。元気な二人組だった。聞いてみると菊丸くんは俺や大石と同い年で、桃城くんは二十歳らしい。ついでに聞いたのだが、海堂くんも二十歳。二人ともすぐに俺を受け入れ、歓迎してくれているようだった。
よろしく、菊丸くん、桃城くんと挨拶すると「くん」付けで呼ぶのはやめてくれと二人とも同時に抗議してきたのが面白かった。
海堂くんも猫っぽいと思ったが、菊丸も猫っぽい。しかしこっちは家猫みたいだと思った。桃城は犬。でかくて人懐っこいレトリバーのようだ。
なんというか、動物っぽい人が集まった職場なのだろうか。
次に厨房へ案内され、料理人の河村隆くんを紹介された。困ったように笑うのが印象的だった。
「彼はね、料理をしてる時がいちばん凄いんだよ」
と大石が含みを持たせて言うのが気になり、問いただしたが、それは見てのお楽しみだとはぐらかされた。まったく、大石は単なる堅物でもないらしい。
最後に自室に案内して貰い、こんな広い部屋を与えられるのかとまたちょっと驚いた。
ダブルサイズくらいのベッドに、重厚そうな空の本棚、無駄に大きいクローゼット、デスクにチェアに大きいソファ。簡素だが、室内にユニットバスがついているのがまた凄い。大きい風呂もトイレも他の場所にあるから、そちらを使っても問題ないと言われた。
――今日来て何度も思ったが、ここの屋敷は異空間だ。
持ってきた荷物をベッドの上に置いて確認していると、大石が窓を開けてくれた。
「あと一人、執事の不二ってのがいるんだけど、彼は出張中なんだ」
「――執事で?」
「ちょっと大和様についていっている。すごく優秀な人だよ、不二は」
「……ふうん」
不二、……何処かで聞いたことがあるような気がする名前だ……。記憶のノートを捲り返してみたが、メモが擦れているようで思い出せない。その不二とやらに会えば分かるだろうか。
「これで全員かな」
「そうなのか、……あれ」
思い返していて、一人足りないことに気付いた。
「手塚さんが言ってた、もう一人の養子っていうのは……」
「ああ」
外に視線を遣りながら、大石は自分の首筋をかいた。
「ちょっと気難しい方で……越前リョーマ様というんだけど、……多分そのうち会えるよ」
「会える?」
屋敷内にいるんじゃないのか?
「いつも動き回っていてひとところにいらっしゃらないんだよ」
行方が知れないというわけか。なんとまあ、わけの分からない……。
「これだけ広いのに、よくこの人数で回していられるな」
「回していられるというか、回さざるを得ないと言うか……」
大石が言葉を濁す。
「たぶん、これもそのうち分かるよ……。あまり、働き手が長く続かないんだ、ウチは」
謎めいた台詞だ。何かの含みを感じる。こればっかりは好奇心が押さえきれずに聞こうとしたが、大石は「仕事があるから」とするりと逃げるように去ってしまった。
夕飯時、従業員みんなで飯を食っていたのだが、誰しも――あの優しげに見える河村さんまでもが俺の疑問に答えてくれなかった。みな口を揃えて「そのうち分かるよ」とだけ。何処か楽しそうに見えたのは、俺の気のせいではないはずだ。
――海堂くんだけが気分が悪そうに黙り込んでいた。
そして初日の真夜中、俺は何故ここで働く者が長続きしないのか、その理由をさっそく知ることとなる。
急な寒気に、目が覚めた。習慣で、眼鏡を探して素早くかける。たとえちょっと起きただけでも眼鏡をかけないと気がすまない質なのだ。
身を起こそうとして肘を枕についた瞬間、俺は自分の目を疑った。目が悪く、度のきつい眼鏡をかけているが、こんな見間違いや幻覚を見たのは初めてだった。――いや、それは幻覚なのではなかったのだ。
ベッドの足もとあたり、白い――髪の長い――女の影……。
それを確認した後の現象に、思わず叫び声が出そうで、でも咽喉に張り付いて出なかった。
こんな非現実的な……。
俺が硬直している間に、その女は、煙のようにふわりと消えてしまったのだ。
俺は、気絶するように再びベッドに倒れこんだ。
2004/6/24
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