088:髪結の亭主(妻の尻に敷かれる夫)

 

「うわっ!」
「あっ……」
 珍しい跡部の悲鳴と向日の焦った声に振り返ると、二人が折り重なって倒れていた。
「――なにしてんの? 自分ら」
 跡部がうつぶせになって地面に倒れ、向日がその背中に尻餅をつくような体勢だ。忍足は呆れながら、とりあえず向日を引き起こしてやった。
「跡部にぶつかった……」
「そりゃ見りゃ分かるわ。せやから何してぶつかったん?」
「走ってただけだけど……」
 むう、となにやら考え込む向日。ろくでもないことを考えているのがよく分かる。
 どうせ周りを見ないで馬鹿みたいに飛び跳ねていたんだろう。
「だいじょぶかー、跡部」
 起きようとする跡部に手を差し出したが、無視された。まあいつものことだ。
 立ち上がって自分についた砂埃を払うと、おもむろに腰に手をあてて、深く息を吸って、向日をギロリと睨んで、
「岳人! てめえは少し落ち着きを持て!」
 一喝。
 向日はびくりと肩を竦めた。
「はぁーい、すいません!」
 一言謝ると軽やかに身を翻して去ってしまった。あまり悪びれていないのが向日らしいのだが、跡部はその後姿を実に冷ややかに見送っていた。
 ――後でネチネチ苛めるつもりなんやろうな……。
 部長様の考える事を察して、忍足は肩を竦めた。
 跡部の肩を叩いて、彼の左足を指差す。
「跡部、消毒せな」
 膝がすりむいて、血が滲み出ている。
「ああ? こんなんほっといても平気だろ」
「バイキン入るやん」
「これくらいで入るか」
 お坊ちゃまなのに、どうしてこういうときは変に無頓着なんだろうか。
「仮にもスポーツマンが怪我を甘く見てどうすんねん」
「スポーツマン? 暑苦しい言い方すんじゃねえよ」
「言い方なんかどうでもええやんか……」
 憎まれ口を叩く跡部に呆れながらしゃがみこむ。怪我をマジマジと見ると結構痛々しい。
「とりあえず水で流さな。あーあ、砂利が入ってもーて……痛そうやなぁ」
「そういうことを実況すんな……」
 心なしか、声が弱々しい。
「――跡部、怪我とか苦手なん?」
「ああ?」
「顔青いで」
 にやりと笑いながら見上げると、
「…………」
 否定せずにただ睨んでくるだけだ。
 育ちがいいから、あんまり怪我とかに縁がなかったのだろう。子どもの頃、外を走り回って膝や腕に怪我をしてもそれでも元気に遊ぶ――そんなことはしなかったに違いない。
 今だってテニスのために身体を酷使はしているものの、どんな無茶をしても血が出るようなヘマはするはずもない。
「ほら、行くで」
 宥めるように肩を叩くと、渋々歩き出す。傷口が引き連れるのだろう、一歩歩くたびに顔を僅かに引きつらせる。しかし歩調を緩めることはなかった。
 そんな彼の様子に笑いを堪える。弱みを見せない、意地っ張りなのだ。
 水場まで導いて、靴を脱がせて足を洗ってやろうと左足を持ち上げる。
「うわっ」
 バランスを崩してよろけて忍足にしがみつく。しかしすぐはっとなって手を離そうとした。
「捕まっとき」
 苦笑しながら言うと、これまた渋々捕まってきた。
 水流をあまり強くせずにそっと傷口を洗い流す。
 どんな顔してるかな、と見ると、跡部は視線をそらせたままだ。眉間に皺を寄せて唇を噛み締めて、堪えるような表情だ。
「我慢しいや」
 相当痛いだろうが、怪我に指を這わせてなるべく優しく砂利を取り除く。さすがに黙っていられなくなったのか、
「いてえよ!」
 とうとう文句が出てきた。
「しゃあないやろ、動くなっつの」
「もっと上手くやれよ!」
「……自分でやるか?」
「……いやだ」
「じゃあ黙っとき」
 むすっと黙り込む跡部。傷口に触れるたびにうめくが、それ以上余計なことは口にしなかった。
 ようやく砂利をほぼ取り除いた。
「次は消毒な」
「まだやるのかよ……」
 うんざりした口調だが、覇気があまりない。救急用具のある部室へ移動するときも、比較的大人しかった。
 部室へ入り、彼を椅子に座らせて消毒液やガーゼをロッカーから取り出す。
 その作業の間、忍足は先ほどから込み上げてくるどうしようもない衝動と向き合っていた。
 ――言うなれば、加虐心。
「さてと」
 座っている跡部の向かいにしゃがみ込んで、傷口を目の前にする。何処かイヤそうな――彼にそぐわない情けない顔をしていた。
 痛みに慣れていない、温室育ちなんだな、と思わせるには十分な反応だ。
 だからこそ、疼く。
 加虐心が。
「舐めてもええ?」
「はァ? おまえ何言って……」
 跡部の許可を待たずに、忍足は舌を伸ばした。跡部の膝に向かって。
「うわっ、いって……!」
 ざらりと舐めると、跡部が思い切り顰め面をして軽く仰け反った。その姿を見上げる。
 逃げようとする足を押さえつけて強引に血を舐め取った。錆びた鉄の匂いと味がする。
「やめろ、痛い……、痛いって……っ」
 跡部の指が髪に絡んで顔を離そうと引っ張ってくる。しかし無闇にやると歯でも立てられそうだとでも思ったのか、あまり力が入っていない。
「忍足!」
 咎める声だけが強さを持っている。しかし痛みに掠れてはいるが。
「痛い?」
「そこで、しゃべんな……っ」
「エロい声出すなぁ、跡部」
 実際跡部の声は妙に艶かしい。変態くさいとは思いつつも、もっと聞きたくて執拗に舌を絡ませた。血の味はとてもじゃないが美味しいものではないが、視覚や聴覚というのは重要だ。痛みに歪む顔を見たくて、喘ぐ声を聞きたくて。
「忍足……、忍足っ! このっ……!」
「ぶっ」
 急に視界が塞がれて、同時に顔面に衝撃が来た。その衝撃とともに尻餅をつく。
「うわっ、ったぁ――……」
「馬鹿! クソ馬鹿!」
 顔面を蹴られたと分かったのは、顔を押さえた手の隙間から立ち上がっている跡部を足を見たときだ。怪我をしていない方の足で蹴った――というか足蹴にしたのだろう。
 鼻がズキズキ痛む。
 容赦なく蹴りやがったな、自分……。
 涙目で跡部を見上げると、跡部は完璧に怒りの表情で忍足を見下ろしている。
「忍足……てめえそういうフザけた真似を俺様にして、赦されるとでも思ってんのかァ?」
「ちょっとしたお茶目やんか」
 まだ痛いのだがなんとかへらっと笑うと、彼はますます眉を吊り上げた。
「お茶目? はっ、お茶目だァ?」
 鼻で嘲るように笑ったが、顔はまったく笑っていない。本当に本気だ。
 こうなったらひたすら謝るしかない。
「スマン。魔が差した。もう二度とせえへん、絶対せえへん。ほんまにスマン」
 両手を合わせて拝むように謝罪したが、跡部の機嫌は直らない。
「てめえのその口調、どうにも本気で反省してるようには思えねえんだよ」
「口調はしゃあないやん……育ちのせいやし」
「口答えか? あァ?」
「なんでもありません」
 再び頭を下げる。
 しばらく苦しい沈黙が続き、不意に跡部が椅子に座り直した。尊大に足を組んで、忍足の目の前でぷらぷらさせる。
「消毒からやりなおせ。ちゃんと消毒液を使え。必要以上に触るんじゃねえ。触ったら殺す」
 何処までも偉そうにそう言い放つ。
 ――ああ、ほんの一時だけの優位やったな……。いや優位とも呼べへんようなもんやったなあ。
 しみじみと短い喜びを噛み締めつつ、大人しく命令通りに消毒と治療をした。
 しばらく、このネタで向日と共にいびられるんだろうという予感に囚われながら。
 そうどうせ尻に敷かれっぱなしなんだ、いつも、ずっと。
 しかしそれでも構わないと思う自分が一番やっかいなのだ。

 

2003/10/10

 

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