世界の果てやこの世の果て 6
……077:欠けた左手

 

「冴貴子に会ったの?」
 少なからず、彼女のことを名前で呼ぶ成歩堂に、御剣は傷ついた。しかし成歩堂はそれに気付かなかった。それよりも、御剣と彼女が何を話したのか、の方が重要だった。
「どうして、何処で」
「――君の事務所の前だ」
 成歩堂が舌打ちをする。
 珍しく、早く帰るんじゃなかった。自分がいれば、彼女と御剣が会うことはなかったはずだ。
 成歩堂の反応に、御剣は怯えが走った。
「どんな話をした」
 怖く低い声音に、正直に答える。答えざるをえない。
 彼女と付き合っていたときのこと。
 今でも彼女は成歩堂のことを想っていること。
 事実を簡潔に。話された内容を意外と覚えている自分に妙な感動を覚えた。
 話し終わると、成歩堂はまた舌打ちをした。
「余計な真似を……」
「成歩堂」
 吐き捨てる物言いにぞっとした。
 御剣が成歩堂に捨てられるときも、こんな言い方をされるのではと想像して、怖くなった。
 ――捨てられる?
 そういう考えは彼女に失礼だ――と思ったとき、
「余計なことではないだろう……。彼女は彼女の理由があって」
 つい口を滑らせた。言うのではなかったと瞬間感じだが、もう遅かった。
「迷惑だって言ったんだ、僕は」
「しかし――」
 どうして自分は彼女を庇っているのか、御剣には分からなかった。
「迷惑だと言われても君に会いたかった、彼女の気持ちは本物だと思う」
 言い募る御剣に、成歩堂は腹が立ってしかたなかった。
「本物だろうと、想ってもいない相手から好かれて告白されても、僕には応えようがないんだよ」
 ひたすら彼女を擁護する言葉を吐く御剣が赦せなかった。
「僕にはちゃんと恋人がいるだろう、おまえという」
「そう――なのか?」
「――はぁ?」
「私が恋人でいいのか?」
「何を言ってるの、御剣」
 誤魔化しを微塵も赦さない成歩堂に、御剣はポツリと落とすように口を開いた。
「男同士で――何の生産性も見込めないこんな関係は不毛かもしれないと」
「恋愛に生産性なんか求めないよ僕は。なんでそんなことを言うんだ。おまえは分かって受け入れてくれてたんじゃないのか? 僕がおまえを好きだといって、それにおまえが応えてくれたからこういう関係を続けているんじゃないのか?」
 成歩堂が苛立たしげに御剣の肩をつかむ。答えを望むように揺さぶられるのを振り払い、小さく叫ぶように言った。苦しい。確かに苦しかった。
「確かに……受け入れた、しかし……!」
 道すがら考えてきたことを、御剣はぶちまけた。
「仕方なかろう! 私なんぞと付き合うよりも、君にプラスになる人は他にもいるはずだ! 私にも君にも、もっとまともな未来はあったはずなんだと――」
 しかし、最後まで言葉を紡げることはなかった。
 成歩堂の右手が御剣の左頬を、高い音をたてて打ったから。
 呆然と成歩堂の顔を見ると、彼は左目の下に皺を刻んで、怒りを隠そうともしていなかった。
「プラスって何。損得で付き合うような恋人同士って何! まともってなんだよ。異常なのか? 僕たちの関係が異常!? そう思って僕と付き合ってきてたんだな、おまえ!」
 成歩堂だって、この関係が異常ではないとは思わないわけではない。そもそも男同士というのはどこか、やはりタブーなのだ。
 でも、そんなことを御剣の口から聞きたくなかった。
 せめて口にしなければ、現実にならないと思っていた。思いたかった。
 まともな未来――そんなものは、御剣が一番似合ってしかるべきなのだと心の片隅で思っていたことを、暴きたくなんかなかった。
 この関係は成歩堂からしかけたものだった。
 好きでたまらないという感情だけで押し切った。
 成歩堂が御剣に手を出しさえしなければ、御剣が成歩堂のことを好きになることはなかった。
「――そうだよな……僕が悪かったんだよ」
 言われて、御剣は泣きたくなった。その顔を見た成歩堂も泣きたかった。
「悪かったよ……」
「成歩堂……」
 御剣に背を向けた。
 何かを堪えるように俯いたその首の角度とか。
 力なく落としたその肩とか。
 触れたくなった。
 初めてかもしれない。自分から彼に触れたくなった。
 後ろを向いた背中に、頭を押し付けた。すると成歩堂はびくりと怯えたかのように反応した。
 そうして御剣は、成歩堂の左手を己の左手で握り締めた。五指を絡めて逃さぬようにと。
 成歩堂は振り返った。繋いだ左手を離さずに、それごと抱き締めた。
 御剣が泣いているのを、セックスの時以外で初めて見た。
 成歩堂が泣くのが御剣のためならば、御剣が泣くのも成歩堂のためだと。
 そうであると思いたがったのは成歩堂だけれど。
 意識をしないまでも、御剣が泣いたのは、成歩堂のためだった。

 

2003/9/21

 

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