世界の果てやこの世の果て 4
……089:マニキュア

 

 先日成歩堂に飲みに誘われて断った。別に嫌だったとかそういうことではなく、単に忙しかったから。
 お詫びがてら、貰い物の酒を持って、終業したと思われる時間を狙って事務所を訪ねてみた。
 すると、事務所入り口に一人の女性が立っていた。背中まである髪を、乱すことなく綺麗に流している。
 身だしなみのしっかりした聡明そうな女性だった。
 ――依頼人だろうか。
 私はここで引き返すべきだろう。踵を返しかけたとき、その女性がこちらを向いた。思いがけず目が合う。
「すみません――」
 高い声だ。私に向かって言っているのだろうか……。だろうな、今目が思い切り合ってしまったし。
「失礼ですけど、検事さんですよね。御剣さん」
「は――」
 知り合い、だったか? いやこの女性は会ったことがないはずだ。
「新聞で拝見させていただいたことがあります。成歩堂弁護士との対決とか」
 彼女は実に艶やかに微笑んだ。
「……恐れ入ります」
 ヤツの依頼人だろうか。ならば私は去るべきだな。失礼、と言って踵を返しかけたとき、彼女がまた私に話し掛けた。
「彼は今、いないのでしょうか」
「え?」
「留守みたいなんです」
 なるほど。だから彼女はこうして扉の前で立ち尽くしていたのか。
「残念ですが私には分かりかねます。しかしこの時間にいないとなれば、今日はもう戻ってくる可能性は低いでしょう」
「そうですか……」
 残念そうに呟く。
「依頼ならば、明日また出直された方が――」
「いえ」
 彼女は一変も微笑を崩さなかった。
「個人的な用事なので」
 個人的な、用事……? 成歩堂に?
「申し送れました。私、甘利冴貴子と言います」
「……失礼ですが、成歩堂との関係は……」
 聞いた瞬間、後悔した。
 きっと私の感じた予想は当たっている。
「恋人です。元、がつきますけど」
 何故か彼女は、成歩堂のことを語りだした。
 なにかしらきっかけがあったのかもしれないが、呆然とした私は気付かず、ただ彼女の言葉を聞いていた。


「真面目そうに見えて、案外遊んでるんですよね、龍一は」


「基本的に女性には優しいし」


「まだ好きなんです。本当は龍一に私を追いかけてきて欲しかった」


「龍一となら幸せになれるって今でも想ってるんです」


 立ち話にしては、長かった。と感じたのは私の内面のせいだろうか。
 彼女の言葉が頭の中に木霊して、心に突き刺さる。
 女性と付き合っていた「まとも」な成歩堂の話は、私に少なからず衝撃を与えた。
 寂しそうに微笑む彼女。頬に手をあてて、小首を傾げる。
「龍一の今の想い人、知っています?」
「えっ――」
「綺麗な人なのかしら。その人は龍一を好きなのかしら。龍一と幸せになれるのかしら」
 細く繊細そうな指の先、上品な桃色に塗られた爪が、ちらちら光る。
 私にはそれが、「女」という立場を誇示しているように見えてしまった。
 こんな卑屈な自分がいたのかと内心恥いる。
 私は女性みたいに可愛らしくはないし優しくもない。彼に幸せを与えられる保証もない。
 何より私は男なのだ。
 今更ながら突きつけられた事実に狼狽える。
 甘利嬢といつ別れたのか記憶にないまま、私は無意識に成歩堂のアパートに足を運んでいた。
 私は甘利嬢の顔をよく覚えていなかった。
 記憶にはっきり残されているのは、桜色の綺麗な指先、マニキュアの光るそれだけだった。

 

2003/9/13

 

BACK