世界の果てやこの世の果て 1
……081:ハイヒール

 

 ふざけないで! と怒鳴られて投げつけられたのは、彼女のハイヒールだった。
 よくまあこんな踵の高い靴を履けるな、と常々感嘆していたが、投げつけられるとそう悠長なことも言っていられない。
 彼女は片足が裸足のまま事務所を飛び出した。
 僕は追いかけることもせず、投げつけられたハイヒールを拾い上げて溜め息をつくだけだった。
 ――最低だな、僕。
 心の中でそう思うが、きっと投げつけたのが別の人物――僕の本当の想い人だったら、必死で追いかけたんだろう。
「ほんと、最低だな」
 口元に浮かぶのは自嘲のみだった。
 そんな過去があったのを、ダンボールの中から発見されたそのハイヒールによって思い出された。そしてそれは、今、現在の恋人の手の中で鎮座している。
「これは何なんだ?」
「え――と……」
 資料の整理なんか滅多にするもんじゃない。しかも客のいる時に。
 御剣はもはや客というかそれ以上なのだけれど、それでも、だ。
 ちょうど事務所で資料やらなにやらの整理をしていた時、たまたま御剣が現れた。途中だったのでそれはもう派手に散らかっていた。そして手伝おうという彼の申し出をありがたく受け取ったのが運の尽きか。
「証拠品か? それにしては随分無造作に入れてあったものだな」
 御剣は完璧なまでに無表情で、僕には怒っているのかどうなのか判別がつかない。
 もし怒っているならヤキモチかな、なんてうぬぼれて嬉しくもなるが、呆れているならどうしようもない。事実、それは呆れられるような過去の遺物なのだから。
「しかも片方だけ……。どうしてこんなものがあるのか、と聞いている」
「えーと、忘れ物……」
「靴を、片方だけ?」
「うっ……」
 御剣はハイヒールの踵を人差し指にぶら下げて、これみよがしに僕にそれを見せつける。
 ――そもそもこの検事さんを付け焼き刃の嘘でごまかすなど不可能なのだ。
 僕は腹をくくって、過去の恋人との別れの場面をかいつまんで話した。
 ちょっとした口論から口喧嘩になり、めんどくさいなと吐き出した僕に酷く傷ついた顔をしてハイヒールを投げてきた彼女のことを。
 聞き終わった御剣は、僕の一番恐れていた呆れのため息を吐き出した。
 ソファに座りながら言う。
「最低だな、キサマ」
 突き刺さるなあ、その言葉。
「……一応、自覚済みです」
 しかし彼は更に僕に追い討ちをかける。
「職場で別れ話。しかも誠意の感じられない返答。よくまあコレを投げられただけで済んだものだ」
「いやだってさ」
「私にイイワケしてどうする」
 一蹴された。
 なんだか脱力して、僕も御剣の隣に座り込む。
 僕は今でも最低な男なので、過去の恋人へのイイワケより今の恋人へのイイワケの方がずっと大事なんだけれど。
 ハイヒールを見つめながら、落とすように呟いた。
「――私の時は何を投げつけるべきかな」
 不意に漏らした彼の言葉に、僕は目を剥いた。
「別れたいの!? 僕と!」
「何を慌てて――」
「だって今っ」
「落ち着け! 例え話だろうが!」
「本当に?」
 じっとり睨みつけると、御剣は今度は肩を竦めた。
「疑り深いな。職業病か?」
 はぐらかしたなコイツ……。
 今、明らかに失言したって思ったくせに。
「――まったくキサマは、落ち着いてる時とそうじゃない時の落差が激しすぎる」
「そんなことないけど……」
 頭の中は大抵混乱してるんだけどな。表に出さないだけで。
「で、返さなくていいのかこれは」
 またハイヒールをかざしてみせる。
「結構前のだし……」
「いつだ?」
「一年……以上……かな?」
「早く返せっ」
「えー……だって」
「子供のような反応するな、気色の悪い。……まさか連絡先を知らないとでも……」
「当時と変わってなければ知ってるよ。でもさ」
 彼の手から靴を取り上げた。
「別れた男に投げつけたモノが急に送られてきたら、腹がたたない?」
「……ム」
「手渡しでも、顔合わせるのイヤだろうし」
「……ムム」
 御剣が思い切り難しい顔をする。
「確かにキサマの言うことには一理あるな」
 腕を組んで少し考える素振り。
「未練でもあるのか?」
 ああもう、この男は!
「……ねえ、何考えてるの?」
「え?」
 ぐいっと顔を近づけると、御剣が目を丸くした。
「それって何? 嫉妬でもしてくれてるの?」
「嫉妬……?」
 一瞬意味が分からないと言いたげにしたが、一拍後に眉間に皺を寄せた。
「バカなことを……」
 やっぱりなあ……。
「いいんだけど、いいんだけど別にね。ヤキモチ焼いて欲しいとか思った僕がバカなんだよね」
「焼いて欲しかったのかキサマ」
 あああ、もっと呆れた顔をされた。
「思うくらい自由だろ」
「自由だが――」
「そろそろ、片付けに戻ろう」
 突き放すように言って立ち上がると、御剣は面食らって僕につられるように立ち上がった。
「成歩堂」
 ワイシャツの裾を捕まれた。
「怒ったか?」
「……怒ってないけど。これ以上こんな不毛な話をしても仕方ないし」
「不毛?」
「今更これを返しようもないだろ。だいたい、過去に僕が誰と付き合ってようと、今は君と付き合ってるんだし――ってこれに拘ってるのは僕か」
 僕はそのハイヒールを無造作にゴミ箱に投げた。
「成歩堂……」
「処分するよ。早く返しもしない処分しもしない、残しておいた僕がバカだった」
 そのまま、資料の山の整理に戻る。御剣も僕に黙って従った。
 彼が何か言いたそうなのは伝わったけど、僕は尋ねることはしなかった。
 怒ったわけじゃない。複雑になっただけだ。
 少しくらい気にしてくれても、なんて拗ねてただけだ。


 そして僕は。
 捨てたものを、拾い上げようとも覗き込もうともしなかった。
 まさか、彼女と再会するとは思っていなかったから。

 

2003/9/11

 

BACK