053:壊れた時計

 

「いい加減にしろ……っ、この馬鹿者!」
 抗うために思い切り左腕を振り上げた。
 ――ガッ!
「あっ――つぅ……」
 私の上にいる成歩堂が額を押さえて腰を丸めた。
 あ――当たった?
 振り上げた自分の左腕を見る。そこには、鈍い銀色に光る腕時計――これが当たったのか!
「だ、大丈夫か、成歩堂!」
 慌てて成歩堂の顔を覗き込むが、彼の手によってその表情は伺えない。口元だけが苦痛に歪んでいる。
「いてて……」
「スマン、まさか当たるとは……け、怪我は?」
 成歩堂の手に自分の手を添える。そっとその手を顔からはずすように促すと、彼はおとなしくそれに従った。
 ようやく現れる成歩堂の目は、ちょっとだけ涙で潤んでいた。
「怪我、してる……?」
「――いや……」
 赤く擦れているだけで、流血はしていない。そのことを伝えると、成歩堂はほうっと息を吐いた。
「びっくりした……」
「私もびっくりした。すまない、腕時計でひっかけてしまった」
「ううん、もともと僕が仕掛けたせいだと思うと」
 そう言えばそうだ。こいつがこんな場所でいきなり……!
 よりによって神聖な裁判所内で……控え室で、先ほど終了した審理のことを話していたさなか、不意をつかれてソファに押し倒されて――。
 ……思い出すだけでも腹が立つやら顔が熱くなるやら。
 そう、今もまだ、男二人でソファに横たわっている状況なのだ。
 私に覆い被さってきている成歩堂の身体を押し戻し、ソファから降りる。
「まったく……」
 乱れたタイを整えながら、まだソファに座っている成歩堂を溜息混じりににらみつけてやると、
「喧嘩両成敗ってことで」
 軽く両手を広げ、茶化すように言われた。
 この男とこういった関係になってから、いつもこうだ。自分はいつも巻き込まれる側で、巻き込むヤツは飄々としている。自分でも分からない。この状態は(もしくは関係は)不本意であるはずなのに、何故か覆そうとしない自分。
 ――まだ、私にはこの関係がつかめていない。
「それより時計は大丈夫? ぼくって石頭だしさ」
 成歩堂が手を伸ばし、私の左腕を持ち上げた。指で時計をなぞる。
「いくらなんでもこんなことで壊れるわけがないだろう」
「でも嫌な音したし。――あ、螺子」
「え?」
 彼の言葉に時計を見ると、針の調整をするための螺子がなくなっていた。
 成歩堂を殴った衝撃で外れてどこかへ飛んでいったのだろうか。
「――仕方ない」
 あんな小さいモノが見つかるとは思えない。私は時計を腕からはずした。
「どうするの?」
「捨てるしかない。時刻の修正ができんような時計は利用価値がない」
 はずした時計を、スーツの内側のポケットにしまおうとする。
「あ、待って」
 成歩堂が立ち上がって手を差し出した。
「それ、捨てるなら欲しいな」
「…………質に入れても無駄だぞ」
「そんなことしないよ!」
「ム」
 なんだか妙な剣幕だ。じゃあ一体何をする気なんだ……壊れた時計なんぞどうしようもないだろうに。
 そう言うと、成歩堂は実に真顔でこうのたまった。
「御剣が身につけてたものでしょ。大切にとっておきたいんだけど」
「却下!」
「えー?」
「不満そうな声を出すな! そもそも貴様が気色の悪いことを抜かすせいではないかっ」
「き、気色悪い……」
 ショックそうな顔をする成歩堂を、私は冷徹に見下ろす。
「そもそもそんなモノを持っていてどうしようというのだ」
「別にどうしようもないけど。そんな思い付きの行動に意味を求められても困る」
「開き直るなっ」


 ――結局、どういうことか腕時計は成歩堂の手元に渡ることになった。
 大切にするよとか言っていたが、壊れたモノをどうやって大切にするというのだ。腕時計なんぞ飾りにもならなそうだが……。
 当然、私は腕時計を新調した。
 そして後日、彼がその壊れたはずの腕時計をしているのを、見た。
 なんとそれは、どうやらちゃんと機能しているようだ。
 どうしても気になってしまい(もともと自分のモノを他人が使っている居心地の悪さも手伝って)、彼を捕まえて問うてみた。その時計はいったいどうしたのだ、と。
 私の子ども染みた質問に、成歩堂はあっけらかんと答えた。
「ん。直してもらった、時計屋さん行って」
 意外なことを聞いて、つい直した? と鸚鵡返ししてしまった。
「そうだよ」
「わざわざ?」
「どうせなら使えたほうがいいだろ」
「それは……そうだが」
 私には直すという発想がなかった。壊れたモノは捨てればいいと。
 単にモノを大切にしなきゃって思ってるわけじゃないけど、と彼は言葉を繋げた。
「なんだって努力して修復させてみるものさ。――なんだってね」
 意味ありげに笑う成歩堂。
 負けたかもしれないと思うと同時に、ひどく羨ましく。
 彼のことを――誇らしく感じた。
 ――壊れた私の腕時計は、今もまだ、彼の腕で時間を刻んでいる。

 

2003/08/21

 

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