形勢逆転

 

「ちわーっス」
 広い家を目の前に、オレは玄関口で大きな声を張り上げた。
「すんませーん!」
「はいよはいよーっと……あ」
 和装姿のヒゲのオヤジが出てきた。確か越前の父親だったはずだ。
 何故か彼はオレを見て、一瞬固まった。マジマジと顔を凝視されて、その視線がちょっと居た堪れないように感じられた。
 なんだか知らないが、一応ぺこりと礼をする。
「えち……リョーマくんいますかね」
「んー、リョーマかあ」
 固まったことなどなかったかのように、ボリボリと後頭部を掻きながらオヤジさんはしかめっ面をした。凝視してた視線はどこへやら、思い出すように上方を見上げる。
「散歩に行ってるんだよなあ、カルピンの」
 カルピン? カルピンって確か……。
「……猫っスよね」
「猫だぜ?」
 オヤジさんはけろりと言い返す。
 ……変わり者の飼い主には変わり者のペットってことかい。飼い主と一緒に散歩する猫なんているんだな。
 まあいないんなら仕方ねえか。
「あのコレ」
 鞄の中からプリントを一枚取り出して、オヤジさんに差し出した。
「部活の予定表なんスけど、渡しといて貰えませんか」
「いーけどよ」
 オヤジさんは一度受け取った紙切れを、何故だかまたオレにつき返してきた。
「もうちょい待てば帰ってくるぜ。上がりな、茶くらい出してやるよ」

 


 広い和室に通された。大きめのちゃぶ台と座布団が並べられている。明らかに客間だった。
 越前はこんなとこに住んでんのか。アメリカからいきなり和全開の生活スペースに放り込まれて、戸惑ったりしねえもんなのか?
 きょろきょろ見回していると、オヤジさんに座れや、と勧められた。大人しく座布団に座ると、何故かまた、向かいに座り込んだオヤジさんはオレの顔を見つめだした。
「……なん、スか?」
 再び襲ってきた居心地の悪さに、今度は文句を言ってみる。
「んーいやあ」
 自分の顎を撫でながら、ニヤリと笑った。
「おまえさ、そういう顔だよなーと思って」
「は?」
 そういう顔って……生まれた時からこの顔だが、なんなんだよ。

「桃城君だっけ? おまえって泣いたりとかしない?」
「……はァ?」
 今度こそわけが分からない。泣くだあ? オレがかよ。
 聞き返したのが意味が分からないと取られたのか、ちゃぶ台に肘をついてちょっと身を乗り出してきた。
「泣くだよ、泣く。涙流してうわーんってさ」
「……最近じゃ泣いた記憶はありませんがね」
「ふうん。泣きたいと思ったことは?」
「……おい」
 意味不明を通り越して失礼な質問に、目上だということを忘れて、つい凄んでしまう。
「それを聞いてオレが答えたとして、いったいなんの意味があるんだよ」
「ははっ、意味なんて後付けだぜえ? オレはいっつもそうなんだよ」
「後付けだろーがなんだろーが、仮にも男に向かって泣きてーことがあるとか聞くんじゃ――」

 間近に迫ったものを、避ける隙がオレにはなかった。
 ちゃぶ台に乗り上げてオヤジさんの顔が近づいても、急なことに面食らうだけで動けなかった。
 この時、オレは殴ってやりゃよかったんだ、このヒゲジジイの横っ面を、拳で、クソ思いっきり。

 視界がふさがれ、鼻先に温かいものが触れた。
 え、と思った次の瞬間に、その温かいものが、オレの唇に移動していた。
 柔らかいものと固いものが同時に接触する。

 ――温かい。
 これは、唇と、……歯?

「うわあ!」
 ずさあっと上半身をそらせて、座ったままあとずさった。
「色気のねえ悲鳴だな――きゃあとか叫ばれても困るけどよ」
 ちゃぶ台に座ったままのオヤジさんが飄々と言うのに、オレは反射的に怒鳴り返した。
「ななな、なに、何すんだテメエ!」
 ぐいぐい手の甲で口を拭う。
 くそ、なんかキショイ感触が残って……。

 涙目になりそうなオレの耳に、オヤジさんの何故だか楽しそうな色合いの声が届く。
「ふうん、まあ、悪かねえな」
「何、がだ、よ……!」
 その態度にムカっ腹が立ち、衝動のまま座布団を投げつけてみたが、見事にキャッチされた。
 ニヤニヤ笑った顔に、余計に腹の虫が収まらない。
「アメリカじゃ挨拶だぜ?」
「ここは日本なんだよっ」
「知ってる知ってる」
 いやらしい笑みを浮かべたヒゲ面が、のそっとオレに近づく。ビクッとして、オレは素早く立ち上がった。
「帰る……っ」
「ん? まだうちのドラ息子、帰ってきてねえぜ?」
「アンタが渡せよ! コレ!」
 プリントをちゃぶ台に叩き付けて、障子を開けて廊下へ飛び出した。廊下の途中で越前の従姉とか言う女の人と会って「もう帰られるんですか?」と不思議そうな顔をされたが、余裕のないオレは、「ちょっと……」と曖昧に誤魔化して、逃げるように越前家を後にした。

「なんなんだよ……!」
 マウンテンバイクを必死に走らせている間、何度も何度も手の甲で唇を拭う。

 ――泣きたいと思ったことがあるか、なんて。
 今、たった今、オレはもの凄く泣きたかった。
 なにがなんだか分からないけれど、声をあげて、泣いてしまいたくなった。

「クソッ……!」
 オレは拭う手を止めない。
 唇に残る柔らかい感触と、顎に触れたヒゲのチクチクとした痛みは、それでも消えてくれなかったから。

 

2004/6/16

 

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