078:鬼ごっこ

 

 靴紐が上手く結べない。縦結びになったりキツすぎたり。こういうことが続く日は調子が悪い。海堂は僅かに苛々を重ねながら、なんとか満足のいくくらいに結びなおして顔を上げると、
「かーいどう!」
「え?」
「はいパース!」
  菊丸が何かを放り投げてきた。黒い掌サイズの物体。え? と思う間もなく飛んできたのでつい両手でキャッチする。
「……なんスか」
  眉を顰めながら飛んできた物体を確認すると――それは携帯電話だった。
  黒い、ピカピカ光る、明らかにまだ新しい機種だ。シンプルなカメラ付きのそれを、不思議に思ってマジマジと見つめていると、
「海堂、それ返しなさい!」
「え、うわっ」
  ずかずか早足でこっちに乾が向かってきた。突き飛ばされたのか、菊丸が壁に寄りかかり「いてーよ乾!」と怒鳴っている。しかしそんな声も意に介さず、乾はまっすぐ海堂を目指して歩いてきた。その距離、およそ5メートル。
  部室内なのでそれほど距離はなかったのだが、乾は背が高く当然足も長い。ほんの数歩で海堂の位置まで辿り着けそうだ。
  だが海堂は、乾の厳しい形相に、つい受け取った物をさっと背中に隠してしまった。その行動は、ただでさえ皺が寄っていた乾の眉間に更に皺を作る結果となった。
「海堂……」
  唸るような乾の声に、反射的に身を竦める。
「それ、返しなさい」
  大きな掌が、こちらに向かって伸ばされた。

 部活前に菊丸がふざけて誰かにちょっかいを出す――なんてよくあることだ。相手は主に後輩だったりするのだが、今回のお相手はどうやら乾らしい。珍しいことに。
  菊丸が普段乾をからかわない理由は明快だ。「面白くないから」。どんなことがあっても悠然と構え、「データ通りだよ」なんて嘯く乾を弄っても楽しいわけがない。からかう方が不快になるだけだ。
  だが今はどうだ。明らかに乾は菊丸に翻弄されている。普段表に出てこない感情が、空気から薄っすらと伝わって海堂を脅かしている。

 海堂は携帯電話を隠したまま――乾に渡してしまえば解放されるという方向に思い至らず――、救いを求めるように菊丸を見た。
  元凶の菊丸は、突き飛ばされた時にぶつけた腕をさすりながら、フンと鼻を鳴らす。そしてニヤリと笑った。
「なァんかねー、乾がこそこそして、しかもニヤニヤしながらメール打ってるんだよん。絶対カノジョとかだって。海堂、見てみてー」
  あっけらかんとした菊丸の言葉に、目を剥いた。
「……カノジョ」
「そんなわけないだろ、返しなさいって!」
  伸びてきた乾の手を、ひらりとかわした。まさか逃げられるとは思っていなかったのか、乾は虚を突かれた顔をする。
「……海堂」
「あ」
  自分がどんな行動をしたのか自覚して、海堂はうろたえた。うろたえたけれど、携帯を返すことはできなかった。

「海堂も気になるってさ」くすくす含み笑いを滲ませて、不二が割り込んできた。「隠すところがあやしいよね? 何隠してるの?」
  菊丸と肩を並べて乾に柔らかく問い掛ける。乾は身体は海堂の方を向きつつ、首を捻らせて不二を睨んだ。しかし当然不二は怯む様子もない。菊丸も不二に調子を合わせる。
「そうそう、あやしいよねえ」
  二人がにんまりと顔を見合わせて笑うのを、ぼんやり猫みたいだと思った。

「海堂、持って逃げちゃえ」
  菊丸が、行けと言うように片手を閃かせる。
  何を無責任なことを言っているんだ、この人は。――と頭の中で呆れてしまったが、身体が勝手に動いてしまった。
  じりっと結びなおしたばかりの靴を退かせ、勢い、後ろを振り向いて走り出す。海堂は部室を飛び出した。
「海堂っ!」
  滅多に聞けない乾の怒鳴り声を背中に、海堂は走る。ちらりと振り返った視界の端に、乾が追いかけてくるのを確認した。

 

 大きな、壁を掌で叩く音。
  同時に海堂は、乾の腕と身体と壁に囲まれてしまっていた。
「せ、先輩……」
「あまり煩わせるんじゃないよ……」
  深い溜め息が頭上から降ってくる。海堂はおどおどと間近にある乾の顔を見上げた。
  海堂が飛び込んだのは理科室。放課後なだけあって誰もいない。だからここに入り込んだのだが……。追いつかれることを、海堂は多分分かっていた。
  追いかけっこが始まって早5分――さすがに鍛えているだけあって足が速い。海堂だって遅いわけではないが、乾には敵わなかったわけだ。捕まるのが分かっていたにしても、少しだけ腹立たしい。でも乾の携帯を持ったまま逃げ出したのは自分の方だ。
  今更ながらこの衝動を申し訳なく思いつつ、両手で携帯を握り締めながら、頭一つ上にある乾の眼鏡を睨みつける。
「あの」少し上がった息を堪えて問い掛けた。「――カノジョっているんですか」
「……あのね」今度は呆れたような溜め息が落ちてきた。指の背で額を小突かれる。「英二の言うことを本気にするんじゃない。……確かにニヤニヤしてメールを打っていたかもしれない。でも、相手は」
「オレですか」
  他の人の名前を出されたくなくて、否定されたくなくて、勢いでそう言った。
  どうせなら自分からぶつかって行った方が楽だ。
「オレですよね」
  確認するようにもう一度。
「――当たり前だろう」あっさりと、他意もなさそうに乾が肯定する。「自分だって分かってるのに、どうして逃げたんだ。おかげで無駄に疲れた……」
  ただでさえボサボサな頭をかき回しつつ、また深く溜め息をつく。
  海堂は乾から視線をそらして、「……なんとなく、っス」と呟いた。
  本当は、ちょっとだけ追いかけられてみたかったのだ。自分だけに向かって走ってくる乾の姿が見たかったのだ。ただそれだけだ――。
  もちろんそんなことなど言えるわけもなく、またそう思ってしまったのも申し訳なく。海堂はちらりと伺うように乾を見上げる。
  海堂の視線を受けて、乾はゆっくりと海堂から身を離した。彼の腕の檻から解放された海堂は、じりじりと壁から背中を起こす。
  触れられるくらい近くにいるのは――認めたくはないが――嬉しいけど、心臓に悪い。出来るだけ距離を取ろうと移動しようとしたが、乾がまた海堂の顔を覗き込んできた。
「なんとなくねえ」乾の声も表情も、すっかりいつもの調子に戻っている。「深く追求したいところだけど」
「…………」
  海堂が嫌そうな顔をしたのを素早く確認して、僅かに唇の端を上げる。
「あとでじっくり聞き出そうか」
「……だからなんとなくだって」
「ふぅん」
  戻ろう、と海堂を促して理科室を出る。肩に置かれた手が熱を持っているみたいで熱い。放して欲しかったが、口には出さなかった。
  改めて気付いたが、乾は下がジャージで上がワイシャツという中途半端な格好をしていた。それだけ焦っていたのだろうか――必死で海堂を追いかけてきてくれたのだろうか。
  本当に認めたくない。認めたくないけれど、じんわり嬉しいと思ってしまった……。
  廊下を歩きながら、乾が淡々と口を開く。
「次はもっと色っぽい追いかけっこの方がいいなあ」
「……どんなんスかそれ」
「実地で教えるよ、今度」
  遠慮します、と答えたけれど、乾は聞いているのかいないのかただ笑うだけだった。
  海堂はむっとして、持ったままだった携帯電話を乾の手につき返す。
「遠慮しますっ」
「ハイハイ」
  受け取った携帯をジャージのポケットにしまい、また乾は笑った。

 

2004/9/25

 

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