002:階段

 

 リズミカルに階段を降りていく。しかしちょっと歩調を緩めた。
 その足音に、過敏に反応したのは先に降りていた乾だった。
「どうした、海堂」
 振り返って見上げる。
「……別に」
 表情を殺して答えた海堂に、乾は不思議そうな顔をした。あまり表情が変わらないけれど、それくらいはなんとなく分かるようになった。
 自然、彼を見下ろす形。いつもと逆の位置だ。11センチの身長差は、思いのほか大きいことをいつも感じる。
 身長だけじゃない。
 一度彼に勝っただけじゃ、位置も立場も変わらない。
 たった一度の勝利じゃ――。
「お腹でも空いた?」
 身体ごと海堂に向き直って、首を傾げて問うてくる。
 こうして夜に一緒にトレーニングするようになって、どれくらいたっただろうか。もはや、乾と夜の公園で練習するのは習慣だ。
「別に」
「疲れた?」
「別に」
「会話しようとか、思わない?」
「してるじゃないスか」
 すげなく返すと、乾はあからさまに肩を落とした。
「海堂はいっつも壁があるな」
「自分じゃ……そんなつもりないっスけど」
「じゃあ海堂の素なのか?」
「さっきから聞いてばっかで、ウザイ」
 本音をぽろりと漏らすと、くすりと笑われた。
「ゴメン」
「別に……」
 ゆっくりとした動作で、乾がまた階段を降り出す。また後ろをついて歩く。
 思えば一緒に行動するとき(そうあるわけではないが)は、海堂は大抵、乾の後ろを歩いている。
 乾が歩くその後姿を覚えている。
 恵まれた体格や、見上げなければならない後頭部や、広い背中を、よく覚えている。
「もっと」
 海堂に背を向けたまま、ぼそりと乾が呟いた。
「あ?」
「打ち解けてくれてもいいんじゃないかな。ダブルスのパートナーってもっと理解しあうべきだと思わないか?」
「……思わない」
「えー」
「少なくとも、さっきからアンタが聞いてくるようなことは、ダブルスには関係ねえ」
「あーうーん……」
 何か口の中でブツブツ言っている。背中を向けているので余計に言っていることが分からないが、どうせ下らないことだろう。
「つまりさ、色々分かり合うことによって、相手の考えることを読めるようにした方がいいってこと。大石と英二がいい例だろう。ちょっとしたことでも相手のことを知っておくってのは、得はあっても損はない」
「……あんまり話繋がってねえよ」
「そうやって突き放さずに会話を」
「先輩と何話せばいいか、分かんないっスよ」
「俺の聞くことに答えてくれるだけで会話になるだろう?」
「…………」
「気が進まないか?」
「進まないっつーか……」
「うん?」
「年上の人と話すことなんか、分かんないっス」
 同年代の友人とでさえあまり会話がはずむことがないのに、ましてや先輩となど、何を話せばいいか想像がつかないのだ。
「――あまり、年上だなんだって思うことじゃないけど」
「……スか」
「どうせ一コだけだしな、年上なの」
「……一コはでかいっスよ」
「じゃあさ」
 階段の一番下。乾が立ち止まった。自然と海堂も立ち止まる。
 振り返った乾の顔は、真顔とも笑顔ともつかない表情をしていた。
「せめてコートにいるときは対等でいよう。先輩だの後輩だの関係ナシで」
「…………」
 言葉に詰まった。
 だっていつまでたっても先輩は先輩で。
 上下関係に結構厳しい海堂には、それは難しい話だ。
「そんなん、無理っス」
 軽く俯いた海堂に、乾は破顔した。
「いやにきっぱり答えるね」
「だって」
 この段差は埋まることはない。
 それは海堂自身が望んでいるからだ。
「俺はアンタに上にいて欲しいんだよ」
「――そう?」
 乾が面白そうに唇の端をつりあげる。それはにやりとした笑みだ。
「階段を歩くのも走るのも飛び越えるのも、おまえ次第なのにな」
 あえて答えはしなかった。
 越えようと本人が思っていないのに、それは無理だ。
 越えるよりも、一緒に並んで上がっていきたいなどと、言えるはずもない。
「……嬉しそうな顔すんな。気色悪ィ」
「うん」
「ますます脂下がってんぞ」
「うん」
「アンタ……」
「うん」
「――馬鹿だな」
「そうかもな」
 降りた階段は、ただ、平面が続く。同じ高さの。
 いつか段差を、取り払えるだろうか。
 今はまだ、分からない。

 

2003/11/21

 

BACK