未だ名も無く

 

「や。不二いる?」
  いきなり刑事課の一室に、ひょろ長い男が顔を出した。黒縁眼鏡の男、科技研の変わり者、乾貞治。不二と同期の、掴めない男だ。
  不二は内心顔を思いっきり引き攣らせながら、同僚の視線を背負い答えた。
「――乾……サン」
「なんだ他人行儀な」
  あっけらかんと言う乾を、不二はもの凄い勢いで引きずって、室外へでた。
  ただでさえこいつは目立つ。不用意に注目を浴びたくない不二を、乾は分かっていないのだ。――いや、と思い直す。そんなことはあるまい。単に不二に対する嫌がらせだ。乾貞治という男はそういう奴だ。まったく、サディストに違いない。
  自分より遥かに長身の男を壁に押し付け、腕組みをして冷ややかな視線を送った。
「何か用?」
「用というか……何でトイレに引きずり込まれなきゃならないんだ?」
「言わせる気?」
  わざと笑みながら見上げると、乾は珍しい苦笑をその唇に刻んだ。
「怖い顔するなよ。今夜暇?」
「はァ?」
  唐突な台詞に、これ以上ないくらいの渋面をつくってみせた。
「ん、誤解を招く言い方だったかな」
「誤解ってナニ」
「お、今日はご機嫌斜めか。わかった、奢ろう、飲みに行かないか?」
「――最初からそう言えないの? 飲みに行きたいけど今夜暇かって。順番が逆だと気持ち悪いんだよ」
  薄汚れた白衣の襟を鷲掴みにして引き寄せ、唾棄する勢いで言い募った。
  本当はそれほど機嫌が悪いわけじゃない。不機嫌というよりとっさの癇癪みたいなものだ。
「悪かった、今度は言葉を選ぼう」
「奢りなら行く。それ以外は却下だ」
「了解」
  襟を掴んだ手を宥めるように、ポンポンと叩かれた。
「加減してくれよな、うわばみ」
「自分にも言いなよ、ザル。――じゃあ六時に」
  胸を一度どついて、足早にトイレを出た。ひらひらと乾が手を振って見送るのを視線の端で確認したのは、見ないことにした。
  落ち着かない。この感覚を強いて言葉にすると……浮き足立っている?
  不二はそんな感情を持て余しながら、書類処理に戻った。遅々と進む時計を何度も見る自分を、悔しいが認めざるをえなかった。

 

 六時ちょうどに乾は迎えに来た。早すぎる。きちんと仕事を終わらせてきたのか疑わしい。
  不二の懐疑の視線を無視して、肩を叩いてくる。
「まだ?」
「ま、あ、だ」
  デスクワークをこなす不二の後ろに立って、まるで母親を待つ子どものように、しきりにまだかまだかと繰り返す。その度に不二はすげない返事をする。
「おまえが六時って言ったのに」
「言ったよ」
「まだ終わってないじゃないか」
「待つこともできないの、君は」
「……不二君、あがって下さい」
  低い声音に振り返ると、折れんばかりにペンを握りしめた同期の観月がこちらを睨んでいた。
「観月……」
「そしてその鬱陶しいのと一緒に消えてください」
  それだけ言うと、彼は話しかけるなと言うように背を向けてしまった。
  観月は不二だけでなく、乾とも既知の仲だ。観月も当然キャリアで、将来を有望視されている。観月と乾二人とも、物事を分析する癖がある点で似ている割に仲が悪い――というより、観月が乾を毛嫌いしている。
  理由はどうでもいいが、それで不二にあたるのは勘弁して貰いたい。
「ほら許可が出た。終わろう」
「君ねえ……」
「観月を怒らせるのは厄介だろう? あいつはしつこい」
「君が怒らせたって自覚はないのか?」
「あるある。だから本格的な雷が落ちる前に退散しようって――」
「聞こえてますよ、乾君!」
「ほら来た」
  強引に不二の腕と鞄を取り、引きずるように部屋を出た。お疲れさまでした! と慌てて声を張り上げ同僚たちに挨拶すると、もうだいぶ離れた入り口から「お疲れー」と言う声と笑い声と怒号が響いた。
  これは明日、なんだかんだ言われるに違いない……。
  うんざりした不二は、乱暴に腕を振り払って鞄を奪い返す。
「僕を孤立させたいの? 警察ってチームワークなんだって知ってる?」
「あまり良いとは言えないチームワークだろう。ぶつ切れ組織なんて良いもんじゃない。が、良い仲間だな、不二」
  嫌味にしか聞こえない。最悪だ。
  そう本気で思う中で、どこか奥底でまんざらでもない自分がいる。だがそれが、同僚に関してなのか乾に関してなのかが判別できない。
  釈然としないまま、薄暗い廊下を並んで歩いていると、細身の影が反対側から歩いてきた。手足が長く細いせいで、実際より背が高く見えるその影。
「海堂」
「あ……どうもっス」
  乾が声をかけた。不二と話すより大人びた口調が、気に障った。――気のせいだ。
「海堂、今上がりかい?」
「いえ、まだ」
  小さい頭を恐縮そうに振る。それは不二に対してであって、乾だけが相手なら海堂の態度はもっと乱暴になっていただろう。乾と海堂の間に、不二の知らない気安さがあるのは知っていた。
「――でも、すぐ終わる?」
「あ、……はあ……」
  不二に話しかけられて、面食らったように海堂が頷いた。
  海堂は不二に苦手意志を持っているようだと気づいたのは学生の時で、今はこれでもまだマシになった方だ。
  頑なな海堂が可愛いな、と素直に思った。羨望とともに。
「これから乾と飲みに行くんだ――海堂も一緒に行く?」
  海堂も目を見張ったが、自然に誘った自分に一番驚いた。
  乾と海堂が一緒にいるところに入り込むのは、いつも居心地が悪かった。先輩後輩なのに妙な絆を感じさせる二人が羨ましいという思いがあった。
  ――認めたくはないけれど、嫉妬に似たものかもしれない。なのにどうして自分は彼を誘っているんだろう。
  もともと不二は、己を追い込む傾向がある。追い込んで、その苦境をこえる自分が好きなのだ。他人に悟られないように、大きな山を越えるのが気持ちいいと思えるのだ。
  しかしこんな訳の分からない苦境は望んでいない。持て余すくらいのこんな感情を、わざわざ味わいたくない。なのにこの口は持ち主と裏腹に動いてしまった。
  ――僕は嘘つきだ。
  海堂は遠慮がちに首を振った。
「いやいいっスよ……」
  その黒い癖のない髪がぱさぱさと揺れる。
「お二人の邪魔しちゃ悪いっス」
「そんなこと――」
  ないよ、と言い募る不二を遮るように乾がじゃあ、と声をあげた。
「また次の機会にな」
「はい」
  誘っていただいてありがとうございました、と生真面目に一礼をする。動作のひとつひとつが丁寧で、そのたびに黒髪がさらさら動くのが、綺麗だ。自分の色素の薄い色とはまったく逆だ。
「でもかいど――」
「行くぞ不二」
「乾、でも」
「頑張れよ、海堂」
「っス」
  強引さに内心慌てている不二を置いたまま、話題は終了してしまった。
  再び腕をつかまれて、引きずるように歩かされた。見送る海堂を残したまま。
  廊下の角を曲がって海堂の姿が見えなくなってから、不二は乾に食って掛かった。
「乾、痛い……離せって。しかもあんなこと勝手に――」
「勝手に言い出したのはおまえだろう。らしくもなく海堂を誘うなよ。アイツも困ってただろうが」
「…………」
  説教めいた物言いにムッときた。乾にはそのつもりはないだろうが、こいつの喋り方は抑揚がなくて感情が読めない。不二自身も感情が読めないとよく言われるが、乾ほどではないはずだ。
「らしくないのは君だろ、乾。可愛い後輩をほっといていいの?」
  意趣返しのつもりの言葉だが、口にすると至極当然のことに思えた。乾の海堂への可愛がりっぷりは、学生時代からのことなのに。
「何か勘違いをしてやいないか、不二」左手の中指で眼鏡を押し上げる。「俺はおまえを誘ったんだぞ」
「……だから?」
「海堂と飲みたいなら海堂を誘った。ただあいつは飲めないから誘うことはあまりないよ。俺はおまえと飲みたいから誘ったと言うのに、その仕打ちはなんなんだ。おまえがいいんだよ」
  仕打ちとは大げさだ。呆れたようなため息を吐きながら、しかし内心の妙な心の浮きたちを堪えるのに精一杯だった。
  ありふれている。「おまえがいい」だなんて、口説き文句としてこの世に満ち溢れるくらいなのに、この胸の疼きはなんなのだろう。乾に――このずぼらでマニアックで変態くさいでかいだけの男に言われて喜ぶことではない。
  だが、これだけ罵り言葉を思い浮かべても、不二の感情は本人より正直だったのだ。
「と言うわけで行くぞ」
  乾は、不二がついてくることを疑わない足取りで先に進んだ。迷いも躊躇いも伺う様子すらない。
  行ってやるものか、と思った不二の身体は、またしても持ち主を裏切った。
「――歩くの早いよ、乾。身長差があることを考えてくれないかな」
  広い背中を思い切り叩いて、その長身に並んで歩きだした。

 

2004/3/16

 

BACK