モノクロカラフル

 
    今月、待機中

 

 花井梓はゆっくりと瞬きをした。一枚のレンズを通したディスプレイが、僅かに白く霞んで見える。二、三度瞼を開け閉じしても、さして視界は変わらない。いやむしろ、余計ぼんやりしてきたようにさえ思われる。
  仕方なく眼鏡を外して、鼻の付根を左手人差し指と親指で揉み込んだ。溜め息が深く深く漏れる。
  花井はもう三日程、布団にその身を横たえていない。それもそろそろ限界だ。許す、許さないも己次第だと言うのは百も承知。要は、ノルマさえ果たせばそれで済むのだから――。
  スポーツ系ノンフィクション物の翻訳家。決して馬鹿売れするようなジャンルではないが、元ネタが良ければある程度一定の売り上げは見込める、そんな読み物を日本語に訳している。そういった仕事なもので、必然的に締切りに追われるわけだ。
  花井は時計を一瞥し、そして壁掛けのカレンダーをじっくり見る。眼鏡をかけずとも見えるくらいの字の大きさのカレンダーには、今日の日付から一週間後に赤く大きな丸がつけられている。言わずと知れた、締切日だ。手元のキィボード、次いでパソコン画面に視線を戻す。徹夜した三日間でだいぶ進んだ。これなら十分間に合うだろう。
  寝るかな。
  胸中で呟いた言葉は、花井をひどく誘惑した。寝る。睡眠をとる。なんと素晴らしい提案だろうか。
  そうだ、ここまで頑張ってきて、仕事の進みにも貯金が出来た。少し寝て、メシ食って、再開したって間に合うはずだ。そもそも後一週間も余裕があるのに、なんでこんなに根を詰めていたんだっけ――。
  睡眠が足りない頭で脳味噌を回転させ、花井ははたと気付いた。思い出してしまった。何故、こんなに前倒しで頑張っていたのか、その理由を。思い出したくもない理由を。
  十月。
  締切りの一日前。奴の誕生日が、迫っている。
  花井がどうして翻訳家という職を選んだかというと、本人も未だによく分かっていない。
  英語はまあまあ出来た。成績で言えば上の中くらいだっただろう。そんな自分がまさかこんな仕事を糧にするとは、高校生時分には微塵も思わなかった。高校生の時には別の目標があった。今にしてみれば子供の可愛らしい夢とも言えるだろうが、当時は真剣だった。時折弱音が顔を出す時もあったが、それでも諦めようとは思えなかった、目標。
  今現在の姿と真逆とまではいかないものの、交わることもない立ち位置。後悔しているわけではない。自負とやり甲斐を持って、今の仕事に臨んでいる。ただ、あの頃の眩い夢を叶えた、一人の男が、花井のすぐそばに立っていることが少しだけ胸を焦がす。昔の風景と共に。
  そして何の因果か花井は、輝かしい夢を現実にして戦いの真っ直中にいる男を、恋人にしている。
  不本意極まりない、と今でも思う。何故だろうと自問自答することも多々ある。結局、押し切られたからとしか言い様がない。
  高校を卒業してすぐに、奴はプロ野球の世界へ足を踏み入れた。鳴り物入りの彼は、一年間二軍で地を固めた後、華々しく球界の表舞台にデビューした。新人賞にも輝き、多少の浮き沈みはあるものの、順調な野球選手としての道を歩み続けている。
  一方花井は、推薦で大学に合格して四年間を学生野球に費やした。そこそこの成績、そこそこの評価。平均より抜きんでてはいたものの、トップレベルには及ばない。花井梓という選手はそういった位だった。もっとも、野球は、頂点にいるべき人間だけでやるスポーツではなく、団体競技である。それは理解していたし、周囲だってそう考えているから、大学卒業後に社会人野球団に入らないか、プロ野球団に来ないかなどと有り難くも声をかけて貰ったりもした。
  だが花井は、いずれも断った。理由は、誰にも打ち明けたことはないが、花井の周囲にはなんとなく察した者もいるだろう。変に聡い高校時代からの友人なんかは、花井と似たような立場だったから余計に理解が及んだだろう。あの頃のエースピッチャーは、今はプロ球団の二軍で着々と実績を重ねている。そしてあの頃のキャッチャーは、花井の肩を叩き珍しく苦笑しつつ、だが分かるぜなんて野暮なことは決して口にしなかった。そんな二人で、大学卒業祝いの酒を飲んだものだ。ちなみにこっちの奴は、今はしっかりサラリーマンだ。
  さて、卒業後どうしたものかと花井が悩む暇もなく、大学野球部のOBから声がかかった。曰く、ちょっと英語が出来てスポーツに精通しているライターが欲しいんだ、と。先輩は新聞社に勤めていて、大学一年時に花井が同輩連中に一般教養の英語を教えてやっていたのを覚えていたんだ、と言った。特に考えもせずに、花井は頷いてしまった。流されやすい性格は、大学四年間でも変わらなかったのだ。
  果たして、一人のスポーツ系ノンフィクション翻訳家が誕生する第一歩になったわけだ。
  同時に、ごたごたに紛れるようにして、花井は田島と付き合いだした。実のところ、高校時代に既に告白――のようなものはされていたのだが、花井がそれを避けた。なかったことにしたわけではないが、保留にしよう、と誤魔化した。田島は、本来なら誤魔化されるような男ではないが、何を思ったのか花井の逃げを了承してくれた。花井の大学時代には時々連絡を取るくらいで、お互いのオフシーズンに少し会ってメシを食って飲んで他愛ない話をして、約束をするともなしに別れる、その程度の付き合いだった。花井には同級生の彼女が出来たこともあったが、長くは続かなかった。田島のそのへんの事情は――よく知らない。知らないようにしていた。
  大学卒業してすぐに田島と付き合いだしたものの、彼は当然多忙だし、花井は新しい生活に躍起になっていて、連絡を取る回数は付き合う前と変わらなかった。思い出したように、田島が会いたい顔を見たいと言うような、甘い睦言を囁いてくるくらいで――。
  落ち着いて向き直れるようになってきたのは、ここ一年くらいのことだ。ぼんやりとカレンダーを眺めていたら、そういえばと気付いてしまったのだ。彼の誕生日が、もうすぐ近づいてきていることに。
  別段、奴にこうして欲しいああして欲しいとか言われたわけではない。高校時代は誕生日ともなると騒いで子供のようにプレゼントをねだってきたものだけれど、ここ数年はそういったこともしない。大人になったと言えばそうなのかもしれない。だからこそすっかり失念していたのだが、考えてみれば、付き合っている相手の誕生日をスルーということは単なる薄情者の所業ではないかと花井自身が思い至ってしまった。別にしたくてするわけじゃなくて、恋人(と言い切るのも抵抗があるのだが!)に祝って貰えない奴が可哀想だからしてやろうというのだ。――と、ここで恩着せがましく思ってしまうあたりが、自分でも全く素直じゃないと自嘲してしまう。
  ペナントレースも終盤を迎え、残念ながら優勝決定戦から漏れた彼の球団は消化試合に入り、彼自身はスタメンからは外れている。来年に向けての調整期間――といったところだ。そんなわけで、少しは連絡が頻繁に取れるようになり、会いたい遊びたいとちょこちょこ言ってくるようになった。成人式を迎えて久しい年齢の男が遊ぼうとか何を抜かすかと呆れることも度々ある。だが、それでも愛想を尽かさずこうして付き合い続けているのは、偏に想い合っているからだ……。
  そこまで考えて、花井は己の頭を抱えてしまった。何が想い合っている、だ。オレは絆されただけだ。そういうスタンスは飽くまで崩したくない。みっともないプライドだとは気付いているけれど――。
  ……思考が脱線した。とにもかくにも、だ。花井は一応恋人という立場にある奴を祝うために、締め切りより早く仕事を仕上げ、準備に取り掛かりたいと考えている。なんでこんなに追い詰められなければならないんだと、ついぞ忘れてしまいたくなりがちではあるものの。
  明日もこの調子で進めれば、明後日には一通り終了し見直しに入れるだろう。明々後日には出版社に原稿を送って、ゲラが上がってくるまでに誕生日祝いの準備を済ませる。多少手の込んだ料理と、プレゼント選びと。――大学時代に付き合った彼女にすら、ここまでしたことはない。ほんの一年程の付き合いだったけれど、いわゆるイベントごとは一通りこなす程度はした。……なんで田島に対しても、こんなことを思い出していたんだっけ? ああそうか、誕生日……。思考が脱線どころか、一巡してしまった。
「今日はもう駄目だな……」
  口にすると、実際に身体が重く感じる。現役時代にくたくたになって布団に倒れこんだ時の疲労とはまったくの別物の感覚だ。身体を思い切り動かした後の疲れは心地よいものがあったが、この疲れは何年経っても慣れそうにもない。
  明日やろう、そうしよう。半ば後ろ向きな思考で、花井はパソコンの電源を落とした。面倒だったが、歯を磨いて顔を洗って……風呂は明日起きたら入ることにして、布団に身を沈める。そういえばしばらく布団干してねえな、明日晴れたら干すかな、と取り留めのない考えがぐるりと脳を回り、やがて暗闇へ落ちていった。


-------------------------------------


  田島悠一郎が花井の部屋を訪れるのは、かれこれ一ヶ月ぶりだった。シーズンの序盤終盤に行けば渋い顔をされることが分かっていても、会いたい時がある。一ヶ月前はその時だったのだ。シーズン中盤だと花井の警戒は弱くなるので頻繁に会えたものだが、殊終盤、優勝候補からチームが外れると余計厳しくなる。自分ひとりだけ成績が良くても意味がない、野球ってのはチームが結果を残してこそ意味があるんだよ、と、往年の主将はそう言う。高校時代はそんなことを言っていた記憶は、田島にはない。自分でそう思い込んでんだろうな、と分かることは時折あったけれども。野球は団体競技なのだ、と。
  今の田島はというと、スタメンから外れ半ば自由の身だ。これで優勝チーム選手とかだったら、テレビ出演などで引っ張りダコだっただろうが、Bクラスという微妙な成績で我がチームは今シーズンを終えそうだ。最後まで試合に出たい、シーズン終了まで戦いたいと思わないでもなかったが、後輩や自分より成績を残していない者へのチャンスとあらば、我侭を言うわけにもいかない。プロとしてひとりでやっていけるだけの独立性は必要だけれども、チームはチームで勝たねばならないので、そういったことも重要なことは理解している。
  さて、現状の田島は、花井のマンションの部屋の前で、珍しく逡巡していた。合鍵は手許にある。これを使うべきか、それともチャイムを鳴らすべきか。花井のスケジュールは大まかにだが聞いていた。締め切りが近い。モノカキの仕事人は締め切りが近づけば近づくほど切羽詰って、疲労困憊になっていくものなのだと花井との付き合いで初めて知った。高校時代、大学時代はすっきりとした坊主頭だったのに、今は伸び放題で、もうすぐで肩に届くのではないかと危惧する程だ。癖毛だから伸ばしたくないと言っていたのは遥か昔になってしまったようで、自分で適当に切っているとも言っていた。人は変われば変わるものだ。もともとそういう性質があったのかもしれないが。花井に会いたい会いたいとは言っていたものの、己の身の回りに対して怠惰になるほどに忙しい花井のことを思うと、田島は矢張り逡巡してしまうのだ。
  ――躊躇っていたものの、田島は手にしていた鍵で扉を開錠した。硬い音を立てて玄関戸が開く。部屋の中は、薄暗かった。
「……花井?」
  隙間から田島がそっと呼びかける。出かけているのだろうか。いや、締め切り前の時期に花井が出かけることはまずない。出かけるとしても夕方、適当に食事を買いに出かけるのが関の山だ。と、なると――。
「お邪魔します……」
  靴を脱いで、そっと廊下に足を上げた。


--------------------------------------


  目が覚めて、真っ先にしたことは時計の確認。カーテンの向こう側が妙に明るいと思ったら、もう少しで正午を回ってしまうところだった。目覚ましをかけていたわけでもないが、寝過ごした、と花井は寝癖のついた髪を掻き回した。三日徹夜は矢張り厳しかったようで、若い時の体力のままだと思うとこうした失敗が増えていく。とはいえ、まだ二十代半ばなのだが。週に二、三回はランニングに出るくらいの運動量では、体力の低下は防げないものなのだろうか。何もしていないよりはマシだと思っていたのだけれど……。
  ところで、何故目が覚めたのだろうか。自然に目覚めるには、ちょっと感覚が不自然だった気がする。何かに反応して意識が覚醒した気がする。携帯か来客のチャイムでも鳴ったのだろうか。携帯電話を確認するが、着信もないしメールもない。とすると、玄関か……。
  ベッドから降りようとして、玄関に続く廊下への扉の磨りガラスの向こう側に――人影が見えてぎょっとした。眼鏡をかけていないから、見間違いかと焦り、慌てて枕元から眼鏡を探り出し装着する。と同時に、扉が開いた。
「なんだ、いたんだ」聞きなれた声が耳に届いた。大きな図体も視界に入る。「暗かったから――」
「寝てたんだ……けど。田島……」
  いやに久しぶりに会う男は、薄暗い室内ですら爛々とする目でもって花井を見下ろしている。実を言うと、テレビで彼の活躍は見ていたので姿そのものに感慨はないが、画面の向こう側と生のこちら側では、印象はだいぶ違う。
「なんだよ、来る前には連絡しろっていつも……」あくびが漏れそうになって、くっと唇を噛み締める。「――言ってんだろ」
「や、寝てるか風呂入ってんのかと思って」
  田島が答えになってないことを言うのはいつものことだ。アポ無しで来るのも、いつものこと。
「ま、いいや……。なんでいきなりこんな時間に、珍しい――」今度はあくびを堪えられずに、くわあと大きな口を開ける。「なんか用事?」
「用が――」
「用がなきゃ来ちゃいけないのかとか言うなよ。オレぁ今切羽詰ってんだよ。知ってんだろに。ちゃんと教えたよな、オレの予定」
「う……」
  田島が言葉に詰まるのを、花井は胡乱に眺める。どうやら、花井の現状を理解していながらやってきたようだ。田島のことだから、自分の仕事の締め切りのことなど忘れていると思っていたのだが――。
  その様子に気をよくした花井は、田島にコーヒーを淹れておくように命じた。
「オレは風呂入ってくるから」
「……朝メシは?」
「もう昼メシの時間だろ」携帯電話の時計を再確認する。「せっかくだし、ちょっと食いに出ようか」
「え、仕事は」
「貯金出来てるからちょっとだけ余裕」
「貯金?」
「予定より進んでるってこと」
 左手を軽く振って、花井は風呂場へと向かった。


--------------------------------------


  コーヒーメーカにフィルタをセットし粉を適当に入れ、水を注いで電源を押す。じきに熱いコーヒーが抽出されるだろう。マグカップを二つ用意して――。
「ふむ」
  機嫌が悪い、というわけではなさそうだと判断する。メシを食いに出ようかと言った時の花井は、僅かに笑みを浮かべていた。
  だが、目の下にはうっすらとだが隈が見えたような気がする。切羽詰っていると言ったのは本当なのだろう。
  コポコポと、微かな音をたててコーヒーがポットに溜まっていく。花井が風呂から出てくる頃には出来上がるだろう。昼飯と兼用なら、近くのファミレスでいいだろう。花井にリクエストがあるなら話は別だけれど……。
  香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
  メシを食ったら、花井はまた仕事に戻ってしまうだろうか。のんびり二人だけで過ごしたいなと思うのは、花井の邪魔だろうか。許されるなら今日は泊まっていきたいのだけれども。どうせ、来週からはしばらく来られないのだし……。
  出来上がった黒い液体を、二つのカップに同量注ぐ。花井は砂糖をスプーンの半分、田島は常は砂糖とミルクを入れるのだが、花井の家には生憎コーヒーミルクはないので砂糖を多めに入れるだけで我慢する。スプーンでかき混ぜ終わったころ、花井が風呂から出てきた。
「おう、コーヒーサンキュ」
「んん」
  頭にタオルを引っかぶって、足取りが心もとない様子で田島の傍にやってくる。
「大丈夫?」
「ん? ああ……」田島の心配に、花井は笑う。「腹減ってるだけだよ。昨日から何も食べてねえんだよな」
「そんなにきっついの? さっき貯金できたって」
「いや、貯金作るために頑張ってたんだけど……」
「何か予定あんの?」
「…………」
  ここで花井が、変な顔をした。他に表現のしようがない。変な顔、だ。
「な、何……?」
「いや、なんでもね」如才なく表情を取り繕った花井は、タオルで乱暴に己の頭を掻き回してから「準備してくる」と言ってまた洗面所に戻ってしまった。


--------------------------------------


  ――自分が、上手に誤魔化せたかよく分からない。
  近くのファミリーレストランで朝食兼昼食を食べている最中のことだ。
「明日から、北海道行かなきゃなんないんだよね」
「北海道? 仕事?」
「そう。チャリティつうか……ボランティア? 野球少年達への野球教室だよ」
「おまえんとこでそういうのやるの、珍しいな」
「うちのチームも人気が出てきたってことよ」得意げに鼻を鳴らす。「引っ張りだこで困っちゃうよ」
「……そりゃスタメンじゃなきゃ暇だよなあ?」片頬だけで笑ってみせると、
「ま、まあね」伸びかけていた鼻が折れた。
「それで」花井は田島の予定を聞こうと、さり気なさを装って更に言葉を続ける。「いつ戻ってくる予定?」
「うーんと」思い出すかのように顎をそらすと、「さ、……」自身がなさそうに呟く。「再来週、かなあ」
「さ、らいしゅう?」
  花井が聞き返すと、田島はきょとんとした顔をした。大きな目が瞬きをする。
「うん……、確か。どうしたんだよ、さっきも同じような顔してた」
「さっき?」
「花井んちで……あれ、何の話してた時だっけ。忘れたけど」
  平日の正午前のファミレスは、まだ客も少ない。店内にはBGMが流れて、主婦らしい集団がさわさわとお喋りに花を咲かせていて、静寂というにはうるさすぎるくらいだ。花井と田島の間に落ちた沈黙は、おそらく花井しか気にならないものだっただろう。
「そうか」吐き出す息に乗せて、花井は呟く。「気をつけて行ってこいよ。飛行機が落ちないように祈っておくから」
「ちょっと、縁起でもねー……」
  花井の軽口に、田島はすぐに乗っかってくれる。声も出さずに笑うと、テーブルの下で優しく足を蹴られてしまった。
  ――出鼻を挫かれたというには、独りよがりすぎたのだろう。もっと日にちが近づいてから判明していたら、更に落胆していたに違いない。……そうだ、自分は落胆したのだ。田島の誕生日を、祝ってあげられないことに。勿論電話やメールでも祝福の言葉は言える。プレゼントだって、遅れてからでも渡せばいい。けれども、二人だけで過ごす計画を思い描いていた後では、どうしたって見劣りしてしまう。花井の心持ちの問題なのだけれども。
  田島だって、自分の誕生日くらいは空けておけばいいのに。いやしかし、仕事となれば仕方ないだろう。ファンサービスは必要なものだ。花井だって、自分の誕生日と締め切りが重なったとしても、どう見積もっても優先順位は締め切りだ。
  ……それでも。
「なんだよ、花井。やっぱ疲れてんの?」
  花井の小さな溜息を、田島が拾って心配そうな声をかけてくれる。
「ああ……少しだけ」
  残念だと思った気持ちは、どうしても吹っ切れなかった。


--------------------------------------


  先週、アポ無しで花井の家に行って、結局は泊めて貰って、思いっきりベタベタできたと思う。花井は仕事に取り掛かって、いつものように田島を邪険にするかとでも思ったが、そんなことはなかった。晩御飯を二人で作って、ちょっと良い酒もあったので飲んで、テレビを見て他愛なくケラケラ笑って、そりゃまあ大人だし夜はやることはやって、次の日の昼まで一緒に寝て、別れたわけだ。切羽詰っていると聞いていたのだけれど、大丈夫だったのだろうか、と今になって心配になってくる。二人で過ごしていたあの時間、花井がほんの僅かだが気持ちを他所に飛ばしていた風情だったことに、田島が気付かないわけがない。仕事が気になるのだけれど、突然やってきた田島に付き合ってくれているせいだったのだろうと想像する。
  今日の野球教室も終わり更衣室で着替えを済ませていると、携帯電話が鳴った。フリップを開くと、姉の名前が小さい画面に表示される。件名は――。
「あっ……?」
「田島ちゃーん、何携帯とニラメッコしてんの? 何、カノジョ?」
  田島よりも背の高い、我がチームの四番が後ろからのしかかってきた。ベンチに座っていたので、重みで前かがみになる。
「うわっ、重っ!」
  どいて下さいとわめくが、一向に退ける気配がない。それどころか首を伸ばして携帯電話を覗き込んできた。
「あー、女の子の名前! ……って、田島って、何、結婚してたのオマエ、しんじらんねー! 隠してたなんて!」
「姉ですけど」
「……面白くねえ」しらけた顔をして、四番先輩は田島からようやく離れる。「ふうん、おまえ誕生日なんだ。前もって言ってくれりゃお祝いしてあげたのに」
「ちゃっかり内容まで見ないでくださいよ」
「見えたんだもん」
  だもんじゃねーよ、と内心思うが、そこは口にも顔にも出さないのが社会人だ。ノリは軽いし性格も軽いが、実力は自分より上の人だと思うとそう腹も立たない。良くも悪くも、田島は実力で人の上下を計ってしまう。
「とりあえずおめでと。いくつになったの?」
「ありがとーございまっす。茅野さんより五つ下っすよ」
「二十代はいいねえ……」
「はは……」つい乾いた笑いが漏れる。「三十代になってそう過ぎてもないじゃないっすか」
「おまえも三十超えたら分かるのよ」
  あんまり分かりたくないなあと言うと、頭を小突かれる。そんな会話を交わしながらも、田島のあまり出来の良くない脳味噌は、別方向へ回転していた。
  携帯を弄ることなく、二つ折りのそれを閉じる。
「返信してやんねえの?」
「あとでで……」
  田島はさっさと携帯を鞄の中へ落とした。先輩はまだ何か言いたそうだったが、田島がなにやら思いつめた表情をしているのに気付いたのか、口をつぐんでその場を離れてくれた。
  まさか、と言う言葉が、田島の頭の中を占める。思い出したことが、あった。
  ――何か予定あるの? と聞いたのは自分。
  ――いつ戻ってくる予定? と聞いたのは花井。
  まさか、まさか。自惚れでなければ、花井は、今日という日の田島の予定を確保したかったのではないだろうか。脳裏に蘇るのは、その時の花井の顔。すごく変な顔をしていた。
  なんで自分の誕生日を、今年に限って忘れていたのだろう。プロになってからはこの時期は丁度ペナントレース終盤で、予定がぎっちり詰まっているだけにかえって忘れていなかったのだろう。一昨年なんかは特にリーグ優勝したものだったから、祝賀会で「明日は誕生日だそうですね、田島選手!」なんてインタビューされたし。(ちなみに「一足早い誕生日プレゼントになりました」なんてことを言ってしまい、花井から「調子乗るなバカ」とか心無いメールを貰ったものだ)
  だが今年は、空白の時期。そりゃトレーニングだって欠かさないし、多少取材なんかはあったりするが、チームの五番打者の田島に大々的にスポットが当たることはあまりない。さっき話し掛けてきた、ノリの良い茅野四番が現在のチームのスターであるだけに。
  とにかくなんにも予定がなく、だから何も考えずに野球教室のことを引き受けてしまった。
  だって――。
  確定したわけでもない事項に、田島は心の中で言い訳を始める。
  だって、花井は何も言ってくれなかったし。もっと早く言ってくれたなら、こんな仕事だって蹴ったのに。花井は怒るだろうけど、もし花井が誕生日を祝ってくれるって言うなら、いっぱい怒られたって一緒にいたのに。
  唐突に、鞄の中で携帯が振動した。あまりに深く考え込んでいたので、驚いた田島は危うくベンチからひっくり返るところだったが、ギリギリで堪えられた。
「おおい、着替え終わったなら早く出ろよ。バス待ってんぞ」
「あ、はーい!」
  更衣室から出ていこうとする同僚に声をかけられ慌てて返事をしながらも、携帯電話を閉じることなく適当に着替えをひっつめた鞄を肩にかける。歩きながらも、視線は画面から離れない。メールの差出人が、花井だったからだ。
  件名は「誕生日」。本文は「おめでとう」。いつものように色気もそっけもないメールだが、多分花井から来るメールとしては初めての、写真が添付されていた。携帯電話の機能として写真はあるものの、花井がそれを活用したのをここ数年みたことはない。高校時代はふざけて撮っていたことはあったが……。
  いったいなんの写真なのか、まったく想像がつかない。添付を選択して、ダウンロードが始まる。画像の上から徐々に表示されていく……。
「――――」
  そこに写っていたものは――。
  カチリ。
  写真をディスプレイから消すと、田島の指は、勝手に携帯のネット機能を立ち上げていた。それはもう、恐ろしい速さで。同時に、頭の中で、野球以外では滅多にしない計算が、ものすごい勢いで巡っていた。


--------------------------------------


  腹がいっぱいになって、非常に苦しい。ちょっとどころか、ものすごく食べ過ぎてしまった。用意した分は結局食べきれずに、大半はタッパに入れて冷蔵庫にしまっておくことになった。
  原稿はとっくに終わって、しばらくは自由の身だ。締め切りを破ったことは一度もないが、これほど余裕があるのは初めてだ。
  あと三十分程で日付が変わる。田島の誕生日も終わる。一通だけ田島にメールを送ったが、返事はなかった。いつもは呆れるくらい早く返信が来るというのに、……。
  矢張り、一緒に送った写真のせいだろうか。さすがに、なんというか……押し付けがましいと言うか、あてこすっているように思われただろうか。勿論、そういった負の感情がなかったわけではない。……いや、もっと正直に言うと、この持て余したやるせなさをぶつけたかったのだろう。
  今になって、どうしてあんなメールを送ってしまったのか、後悔に苛まれている。準備が終わった後、ヤケクソになったせいか。そもそもなんで準備をしてしまったのだろう。田島は来られないと、分かりきっていたのに。
「だいたい……このオレが祝ってやろうっていうこと自体が珍しいんだぞ。こんなこっぱずかしいこと、滅多にしねえぞ……馬鹿野郎……」
  膨れるに膨れた腹をさすり悪態をついても、独り言は一人暮らしの部屋に虚しく吸い込まれるだけだった。満たされた胃袋とは正反対に、心はどんどん磨り減っていくようだ。
「寝るか……」
  食べてすぐ寝ると豚になるという迷信はよく母親に言われたものだが、高校時代はしょっちゅうそういうことをしていた記憶がある。いい加減気を使わないと、肥る一方になる年齢に近づいてきている。本日暴飲暴食したツケは、さしあたって明日やってくるだろう。――胃もたれ決定だ。
  歯を磨いて顔を洗って、仕事も一段落したしそろそろ髪でも切りに行こうかと思いつつ。花井はベッドに潜り込んだ。
  ――は、いいが。
  うとうとと眠りの世界に片足を突っ込みかけた頃合だ。ピンポンと睡眠を妨げる無粋な音が鳴り響く。
「…………」
  玄関の呼び鈴だ。出ようかどうしようか迷う。こんな夜更けにやってくる客なんて碌なものじゃない。田島の馬鹿ならたまに夜中になってきたりするが、今はやつは北海道の空の下だ。どうせ酔っ払いかなんかが間違ってんだろうと、花井は無視をすることに決めた。……けれど、二度、三度。連続で鳴る。
「うるっせえ……」
  布団の中で悪態をついても、当然玄関の外の無礼者には通じるわけもない。
  ――かしゃん。
  やけに尾を引く金属音に、花井は目を見開く。玄関の鍵が開錠された音だ……。
  ここの鍵を持っているのは、自分と、実家の母親と――。
「花井ー……、寝てる?」
「た、たじ……」恐る恐るといった風情でドアを開けて顔を覗かせたのは、先だって合鍵を渡した男。「田島ァ!?」
  眠気なんか一気に吹っ飛んだ。有り得ない人間がそこにいれば、誰だって驚くだろう。
「なんだ起きてたんだ。良かったあ」
  ぱっと笑顔を閃かせた田島は、花井が身を起こしかけたベッドに腰掛ける。その顔を呆然と眺めながら、花井はどもりつつ応えた。
「ね、寝て……たんだけど」
「あれ、ゴメン。まーいいや、ねえねえ、あの写真――」
  真夜中にドカドカと遠慮なくやってきて、開口一番言うことが予想できて、花井は大声で叫びたくなった。さっきまで後悔の只中にいた、その原因を言うつもりなのだろうと――。
「あの写真のゴチソウ、まだあるんでしょ?」
「――――ッ」
  ……ある。冷蔵庫の中に山ほど残っている。数時間かけて準備して、食えるだけ食ったけれど大量に余ってしまったそれは、積んである、が――。
「食べたいなあー。ねえ、あれオレのためでしょ? 超嬉しい。ねえねえ」
「全部食った」
「えっ!?」
「……ってのはウソだけど」
「は? なんでそんなしょうもないウソを……」
「うるせー」男の矜持だと言い張るには女々しすぎる。「今日はもう遅いから明日――って……」
  田島が出てきた衝撃に忘れていたが、本来こいつはここにいるはずがないのだ。
「なあ、おまえ、北海道じゃねえの!?」
「え、仙台だけど」
  想定していなかった地名に、更に驚く。
「はァ? 仙台!?」
「あれ、言ってなかったっけ……。北海道から順々に南下していって、最後沖縄まで行くんだよ。オレ沖縄って行ったことなくって――」
「知るか! うわあ、仙台なんて新幹線でも三時間くらいだろ……」思わず頭を抱えてしまう。「なんだよおまえ、もっと遠いとこにいろよ、信じらんね……」
「ええっ、なにそれ! まるでオレに来て欲しくなかったみたいな! あんなメール送ってきたくせに……」
「ああ、ああもうそれ消していいぞ……。なんかほんとどうでもよくなってきた……。くそ、仙台なんてちょっと無理すりゃオレだっていける距離じゃねえかよ」
  田島の誕生日にやろうと思っていた多少手の込んだ料理を作るということを、花井は今日、やけくそ気味に実行していた。スポンジまで焼いたわけではないが、ケーキなんかも作ってしまった。さて出来上がった料理を一人並べてみると、それはそれは素晴らしいものに思えてきて、こんな立派なの食えないなんて可哀想になあ、田島! とか一人で悪態をついて、そのテンションのまま写真を撮って送りつけた。花井の後悔の軌跡である。
「……なあなあ」田島の手が伸びてきて、肩にかかりそうな程伸びた花井の髪を軽く引っ張る。「花井」
「なんだよ……」
  ふてくされが声から消えない。素直になるには、まだもう少し、何かが足りなかった。そして何より、素直さの専売特許は、目の前の男のものなのだ。
「そんなことよりさあ」昔と変わらない、拗ねた表情をする。「もうあとちょっとでオレ、誕生日終わるんだけど……」
「…………」
  先は言わずとも、知れた。
  何言ってんだ馬鹿と呆れた顔を作って見せたが、田島には通用しなかった。にんまりと笑顔を見せつけられ、もうどうにも誤魔化しようがなかった。
「……田島」口の端に浮かべた笑みは、まだ少しぎこちなかったけれど。「――誕生日、おめでとう」
「――ありがとう」
  花井の方から、そっと田島の口唇に口唇を重ね合わせる。子供のようなキスだが、それでも田島は満足そうに更に笑った。
  来てくれてありがとう――と言うにはちょっと筋違いな気もして花井はあえて何も言わなかったが、多分田島は分かってくれている。変なところで人の心の機微に聡い男だ。
「うん、そうだな、ご飯にはちょっと遅いから」田島の目から、すうっと子供のような光が消え、大人の揺らめきが滲む。「明日昼にはここ出なきゃいけないから……」
「…………」
「ゴチソウは明日の朝ご飯にするとして」
「ケーキもあるんだぞ」
「余裕余裕」からからと田島は笑う。本当、笑顔の似合う男だ。「それより、もっと良いもん、食べさしてよ」
「……オヤジくせ」
  口ではそう言いながらも、花井はゆっくりと目を閉じる。熱い吐息が、鼻先をくすぐった――。

 

 

◆戻る