007:毀れた弓
あれから私はよく桃城くんと一緒に帰るようになった。
放課後、私は教室で本を読んだり宿題をやったりで時間を潰して、桃城くんの部活が終わるのを待つのが習慣となり。
部活が終わった桃城くんが教室に私を迎えに来てくれる。
そして彼は自転車を引き、私はその隣を歩き。
家路へと向かうのだ。
桃城くんはよく喋る。
喋るけれど私の話も聞いてくれる。
私はあまり自分から話し出さないので、促してくれる。
自分の話をした後、
「は?」
そう聞いてくれる。
だから話すのが苦手な私でも、桃城くんとの会話が途切れることはない。
まったくの聞き手にならない、こういう関係は生まれて初めてだ。
なんて居心地のいい。
――私は浮かれていた。
とてもとても嬉しかった。
だから自分がどんな状況か分かっていなかった。
私は本を読むのが好きで、色々なものを読むのだけれど、その中に出てくる恋愛に近いものかもしれないなんて呑気に自惚れていた。
この居心地のよさは、きっと優しいと思っていた。
本当はまったく違うのに。
あんなじわじわと来るようなものじゃ、全然なかった。
私の状況は、もっともっと現実だった。
引き絞られた弓に番われた矢は、何処へ飛んでいくんだろう。
ギリギリに引き絞られた弓は。
毀れるしかない。
コントロールが滅茶苦茶。
いったい何処へ。
いつもみたいに私たちは並んで歩いて、色々喋った。
やっぱりたくさん喋るのは桃城くんで、私は聞かれてそれにちょこっと付け加えるようなかたちだ。
「運動、得意じゃねえの?」
「全然……。走るのも遅いし、力もないし」
それに比べて桃城くんの体育能力の高さといったらどうだろう。
時々テニス部の練習を見ていたが、桃城くんのプレイはとても力強い。テニスのことはほとんど知らない私でもそれくらいは分かる。
つい目が引き込まれてしまう。
ちょっとだけ、前の彼の――そう呼んでいいのかも分からない関係だったが――ことを思い出した。
私、あの人がどんなテニスをするのか見たこともなかったし、見ようとも思ってなかった……。
桃城くんの話によると、あの人はもうテニス部を辞めてしまったらしい。
根性あるヤツしか残らねえからなあ、と笑った桃城くんは、きっと私に気を使ってくれていた。
「その代わりってホラ、頭イイじゃん。オレ馬鹿だぜ、英語とかサッパリ。は文系得意なんだよな?」
「うん……本読むの好きだし、なんかね、英語とか覚えるのも好きなの。不思議な気がして」
「フシギ?」
「私たちってこうやって日本語で話したり考えたりするでしょ? でも外国の人は違うじゃない。自然に私から出る言葉と違う言葉が出てくるのってどういう感じなのかなって思うと、他の国の言葉って楽しくないかな」
桃城くんはちょっと難しい顔をした。私の言ってることが飲み込めないみたいな感じだ。
ちょっと恥ずかしくなる。
確かに、こんなこと普通考えないだろう。桃城くんが分からなくても当たり前だ。
「……意味、わかんないよね、ごめん」
視線を俯かせて小声で謝ると、真ん丸く目を見開いた桃城くんは、音がしそうなくらい勢いよく手を横に振った。
「いやいやいや! 分かんねーわけじゃなくってさ、オレ、そんなふうに考えたことねーし、どんなんかなって想像してた。すげえよな、そうやって思うのもあるんだなあ」
何故かしきりに感心されて、恥ずかしくなる。
「そうだよな、よく考えてみりゃ、人と違うのって当たり前だけどフシギだよな」
うんうんと頷く桃城くんに、ますます居た堪れなくなる。
「ち、違うの、でも、その、ごめんね、変なこと言って――」
「マジだって。だってオレ」
にっと口の端をつりあげる。
「のそういうとこ、とってもいいと思ってるぜ? 好きだな、オレは」
くしゃりと顔を歪めて笑う、いつもの、……。
いつもの、ように。
急に、足もとから何かが這い上がってきた。
温度というか、焦りというか、ぞわっとした感覚だった。
耳がかっと熱くなって咽喉がすごくむずむずする。
言わなきゃ、と思った。今言わないと多分もう一生口になんか出せない。
だって「いつも」なんて「いつまで」続くか分からないよ。
私は、夢から覚めた気分に急になった。
こうして桃城くんとずっと話していられるなんて、誰が保障した?
これは予定調和じゃない、リアルなのに。
言わなきゃ。
「私、も、好き」
え、と桃城くんが言ったような気がした。でも、自分の心臓の音で、私には全然聞こえない。耳鳴りみたいにドクドクうるさい。
だから、ちゃんと言えたのか分からなくて、
「好き、好き、好き……好き」
繰り返して言わないと通じない気がして、何度も言う。
まるで私は毀れてしまった。
あまりに想いが強すぎて。
その重さに耐えかねて、私は毀れてしまった。
なんて唐突な感情なのだろう。
でも恋ってこんなもの? いきなり来るものなの?
なんの予告も伏線もないのに、こうしてぶつかってくるようなものだったの?
私の知る物語の世界では、ちゃんと色々な段階を踏んで、じわじわ進んでいくのが恋だと言っていたのに。
でも、これは物語じゃなくって現実で、私はこうして現実に対面しているわけで。
私は現実に、桃城くんをとてもとても、好きって思ったわけで……。
「好き……」
毀れてしまった弓から放たれた矢は。
果たして彼に届いたのか。
私は怖くて確認できない。
俯いて足元を見るだけ。
桃城くんはどんな顔をしているんだろう。
いったいどんなふうに私の唐突な言葉を受け止めて、どんなふうに思って。
どんな目で私を見ているのだろう。
ああ、この沈黙。
痛いくらいの現実だ。
どうして私は急にそう思ったの?
いったいなんのきっかけが今あったって言うの?
都合よく、なんの前触れもなく好きだなんて繰り返す私に、呆れたかもしれない。
溜め息をついて、何言ってんの? って眉を顰めてるかもしれない。
いきなりンなこと言われても困るんだよって。
今更じゃねえかって。
やがて。
長身の影が落ちてきた。
影は優しく私に囁いた。
「――……あのさ……」
「……はい」
小さく返事をした私の頭に、大きくて温かい、彼の手が乗っかった。
ふんわり髪をかき回して、同時に小さな声でまた囁く。
「オレも」
その言葉がすとんと胸に落ちてきたと同時に、私は死にそうになってしまった。
ああ、顔なんかとてもじゃないけど上げられない。
やっぱり言うんじゃなかった。こんな恥ずかしいなんて。
でも嬉しいと、死ぬほど嬉しいと思ったのも事実で。
私は桃城くんの優しい現実に、とてもとても感謝した。
そう、矢は、届いてくれたのだ。
2004/6/21
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