011:柔らかい殻
私は自分でも思うくらい引っ込み思案だ。
いつでも大人しく、なるべく人と争わないように、波風立てないように生きてきた。
流されているといえばそれまでだけれど、私はそれで良かった。
人を引っ張っていったり、人の感情を左右したり、そんなことは怖くてできない。
ずっとこの自分の殻に篭もって生きていければ、安寧な人生が約束されているのだと。
そう信じている。
だから。
私は必ず回ってくる例のことがとても苦手だ。
学校に通っていると必ず訪れるコレ。
名簿順に回ってくるコレ。
すなわち、日直。
別に日直という役割が苦手というわけではない。
苦手なのは、今目の前に座っている人。
明るくて。
元気で。
クラスのムードメーカーで。
テニス部で。
とても強い。
桃城武。その人が。
私は苦手だ。
私とはまるで正反対の人種。
嫌いじゃないけれど、積極的には関わらない――むしろ関われない人だ。
「な、俺ココ書きゃいいの?」
「あ、うん……」
私のシャーペンを取り上げて、日誌を書き出す。
桃城くんの行動ひとつひとつにびくびくしてしまう。
優しい人だというのは、端から見ていてもよく分かる。
ちょっと粗雑だけど、面倒見がいいし、部活の後輩にも慕われて先輩にも可愛がられている話はよく耳に入ってくる。
しかもこの青学テニス部でレギュラーの座にいるし。
目立たないわけがないのだ。
そんな人が傍にいて一対一で話しているかと思うと、とても緊張してしまう。
「ごめんなさい……部活あるのに」
「いんやあ。でももさ、約束とかあっただろ」
「え?」
見上げると、なんだか申し訳なさそうに笑っていた。
その笑顔に失礼ながら可愛いと思ってしまった。
「ううん。あの、私、帰宅部だし……」
「そうだろうけど、でもさ」
「ってさぁ、彼氏いるだろ」
「えっ……」
「一緒に帰る約束とかしてんだろ?」
びっくりした、というより怯えて固まってしまった。
どうして知っているんだろう。
私は誰にも言わなかったのに。
でもそれより。
「いる」んじゃないくて。
「別れた……」
正確には、「いた」。
「え?」
「別れた、の」
「別れた?」
「うん……」
「…………」
桃城くんは、神妙な顔で呟いた。
「仲、よさそうだったのになぁ」
「そうでも……ないよ」
向こうから告白してきて、あんまりにも一生懸命だったように見えて。
なんだか断るのが申し訳なくて。
頷いたら。
なんとなく付き合うことになった彼だったけれど。
「私、とろいから……向こうが飽きちゃったって」
「とろい?」
「一ヶ月で、向こうがもう好きな子できたから……別れようって言われて」
思い出すのがつらいというより、痛い。
まるで私に価値がないように思えてきて。
彼はたった一ヶ月で、私を守ってきた殻を壊して去ってしまった。
私はなんとかその殻を修復して、ここにいる。
殻の外の世界に更に怯えながら。
「私じゃ彼に釣り合わなかったんだよ。バイタリティの差かな。あの人、モテるもん」
自虐まじりだ、と我ながら思う。
そもそもからして、どうして彼が私に付き合おうなんて言ってきたのか分からない。
何かもっと違うものを期待していたんだろう。
私は。
期待されるような人間じゃないのに。
ただいつも篭もっているだけの人間なのに。
そういえば。
桃城くんとこんなにたくさん話したのは初めてだ。
桃城くんは誰とでも仲良く話せる人だけど、私は違う。
そんな私なのに。
桃城くんに苦手意識を持っていた私なのに。
やっぱりこの人は凄い。
人付き合いが上手な人だ。
私の守っている殻を壊すことなく、私に触れてくれる。
そういうことに長けているのだろう。
きっと、桃城くんは誰にだって優しい。
だから勇気を出して、私から疑問を投げかけた。
いつも人の話を聞いて頷くだけの私にとっては、問い掛けるということでも相当勇気を必要とする。
情けないけれど、それが私なのだ。
「あの……どうして私……達のこと知ってたのか、聞いてもいい?」
「……あいつ、テニス部じゃん」
「あ」
失念していた。
部活が終わるのを待って一緒に帰ることだってあったのに。
彼がテニス部在中だということがすっかり頭から抜け落ちていた。
「おまえらが一緒に帰るの見かけたことあったし。あれはつきあってんだろうなぁってすぐ分かった」
「あー……そっか」
納得。
たまたま視界に入ってきていたというわけだ。
見られていたのだと思うと、居たたまれない。
「勿体ねえなぁ」
桃城くんがそんなことを言う。
「……そうだね。私には勿体無い人だった――」
「違くてさ」
シャーペンの背をくるりと私に向けてくる。
「ヤツが。ふるなんてさ、勿体無いって」
「……うまいこと言うね」
気をつかってくれてるんだろうな。
優しい。
お世辞だって分かっていても。
日誌を書き終わってパタンと閉じた。
桃城くんが職員室に持っていくよと言ってくれたので、私はお礼を言って帰る準備をはじめる。
筆記用具を鞄にしまって立ち上がると、桃城くんが立ったまま私を見ていた。
「とろいのだって悪かないと思うんだけどねえ?」
そう問い掛けられても、事実とろい私には頷ける内容ではない。
「――俺はさ、ハキハキしてんのもいいけど、こんながっついた性格だから真逆の方が合うと思うんだよな」
「そう、かな。……ああ、でも桃城くんには年上とかしっかりした人が似合うかも」
「しっかり? それは俺がしっかりしてねえって言いたいんかよ?」
「あっ、じゃなくって、……ごめんなさい」
怒ってるわけじゃねえよと笑う。
「はああいったヤツが好みなんだな」
「そういう……わけでもない」
「俺みたいなのは?」
「…………」
どうだろう。
桃城くんみたいなタイプは正直苦手だけど、こうしているとそうでもないかな、なんて現金にも思えてくる。
しばらく首をかしげて考えていると。
桃城くんが急にがっくりと机に突っ伏した。
上目遣いで、恨めしそうに見てくる。
「……なんでそんな分かんないって顔してんだよー」
「え?」
「気付かなねえの?」
「え? な、何が?」
「さりげなく告ってみたんだけど」
「え?」
告る?
告白?
なんの?
桃城くんが私を見ている。
じっと。
正面から。
真っ直ぐな目で。
――まさか。
「ま、待って! え? わ、私ですか!?」
「そりゃあ……今俺と話してるのはしかいねえじゃんか」
かーっと顔が熱くなる。
あまりの不意打ちに心臓が跳ね上がってしまった。
「ダメか?」
「ダメというか……そんな」
いきなりだし!
慌てて両手を振ると、桃城くんが私の顔を覗き込んでくる。
「いきなりじゃなければいいってことか?」
「そ、そうっ……なのかな……?」
「かな? って」
「いやそうです!」
何言ってんだろう私。
もう頭の中が滅茶苦茶だ。
「じゃあオトモダチからお願いしても?」
「オトモダチ……?」
いきなりの提案に呆気に取られた。
そして桃城くんは右手を差し出してきた。
私もつい手を差し出す。
桃城くんがその手を優しく握った。
なんてことはない。
ただの握手だ。
こういうときにするようなものかどうかは疑問であり、不自然だけど。
「考えてくれねえかな。ちょっとでいいんだけど。一日のうちほんの少しでも俺のこと」
「……うん」
「できればそういう対象として」
「……そういう?」
「おまえなー掴めよ、流れから」
「う、うん」
「じゃあ」
握っていた掌どうしをパチンと打ち合わせる。
「よろしく。トモダチ」
「――うん」
私が頷くと、桃城くんはにいっと笑って。
鞄を掴んで廊下を走っていった。
部活に向かうであろう彼の姿を。
ただ見ていた。
ドキドキする心臓をそっと押さえながら。
それからだった。
私と桃城くんの奇妙な関係が始まったのは。
彼は私の守ってきた殻を破らずに私に触れてくれる。
そして私は。
いつかこの殻を自分から破れるような予感がしている。
今はまだだけれど、近い将来。
必ず。
2003/9/27
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