自分を知る他人

 


 あの人はいつも笑顔で。
 余裕たっぷりの表情で。
 わたしは。
 それを遠くから見るだけ。
 知る事の無い、知られる事の無い。
 そんな関係だった。
 だった、はずだ。
 なのに――。

「あー君、桃と同じクラスでしょ」
「え?」
 下校途中、いきなり肩を叩かれて呼び止められた。反射的に振り向くと、満面の笑み。
 この人……。
「そうですけど」
 わたしはなるべく平坦な声を出した。彼の人の笑みは一片の崩れも見せない。
「桃、見なかった? 遅いからちょっとね……」
「先生に呼ばれているのを見ました」
「あ、そう? なんでかな?」
「……お昼前、授業中にお弁当食べてて。それが見つかって」
「叱られてるの? あーあ……」
 あ、困った笑みだ。
 不二周助。
 わたしはよく知らないが、テニスで天才とか言われているらしい。桃城くんがそんなことを言っていたのを思い出す。
 ――不二先輩はいつも笑顔で――。
 ――冷静で。
 ――表情が変わらないとこはおまえみたいだよな、。おまえは仏頂面だけどな。
 そんな桃城くんのからかう声も思い出してしまった。
 ひねた性格のわたしは、余計なお世話だ、と心の中で思った。失礼にも程がある。
 あまり表情が変わらないのも、それで冷静そうに見えるのも。
 知らないから。
 同じクラスで隣の席で、たまたま話す回数が多かっただけの桃城くんは。
 近いけどわたしを遠くから見ている。だから知らない。
 もっとも近付きたいなんて、わたしも桃城くんも思ってないだろうけど。
「お説教、どのくらいかかるかな。レギュラー集まれって言われてるんだけど」
「さあ」
 そんなことわたしが知るわけ無いのに。なんだろう、この人。
 わざわざ下校途中のわたし(しかも一度も話した事も無い、後輩のただのクラスメートなのに)を呼び止めてまで。
 ――あれ?
 そもそも。
 面識も無いのに、どうしてこの人はわたしが桃城くんのクラスメートだって分かったんだろう。
「あのう……」
 わたしがちょっと不審そうな顔をしたのに気付いたのか、不二さんは一歩引いた。
「ごめんねいきなり呼び止めちゃったりして。ま、遅くても怒られるのは桃だしね」
 あいかわらずにこにこした顔。
 去り際に彼は、またわたしが不審に思う一言を残して行った。
「じゃあね、さん」
「え?」
 ――どうして。
 びっくりして、今度はわたしが彼を呼び止めようとした手は、空を彷徨って重力に従い落ちた。
 どうしてこの人、わたしの名前を知っているの?

「はよーっす」
 桃城くんはいつも元気がいい。朝から大きな声での挨拶。わたしは朝に弱いので、緩慢におはよう、と返すだけだ。彼もそんなわたしの素っ気ない態度に慣れているのだろう、特に気分を害した様子も無く鞄を机に置いた。
 桃城くんの席はわたしの隣。だからあまり大きな声で会話をしなくてすむのが助かる。――桃城くんの声は大きいのだけれど。
「あー昨日さ、、不二先輩に変な事いっただろ」
「……変な事」
 言った? 言われた記憶はあるけど。
「俺がセンセに呼ばれたって言ったっしょ! 恥ずかしいなーもう!」
「……ああ、そのこと」
「ああじゃないってー」
 がっくりと脱力したように椅子に座り込んだ。
「だって桃城くんがどうしてるか知らないかって聞かれたから。わたしは桃城くんが先生に呼ばれてたって知ってたら。正直に……」
「早弁のことまで言わなくても……」
 あのあと、部活仲間にからかわれたんだよ、と机の上の鞄に突っ伏した。その様子があまりにも消沈していたので、わたしはどうにも申し訳なくなってしまった。
「――ごめんなさい」
「……ふえ?」
「そんなことになるなんて考えもしなかった。もうちょっと注意すればよかった……」
「あ、いや――」
 がばっと机から上体を起こし、わたしに向き直った。
「そんな気にすんなよ!」
「…………」
 そんなこと……。
「桃城くんが言う事じゃないでしょう」
「そ、そーだけど! ちょっと愚痴ってみただけ……だからさ。ごめん」
 拝むように両手を合わされた。
 桃城くんは、いつも行動が大げさでそのたびにわたしはびっくりする。
「……別にいいけど……わたしも、余計なこと言って……あ」
「え?」
 折角だから聞いてみよう。
「不二――先輩って……」
 そこまで口に出して、止まってしまった。
 ――不二先輩ってわたしのこと知ってるの? なんて。
 そんなふうになんか聞けない……。なんか、その問い方はすごく妙だ。
 ――不二先輩にわたしのこと話した?
 これもおかしい。
「不二先輩がどうか?」
 桃城くんがわたしの顔を覗き込んでくる。
「あ、あの――」
 どうしよう。名前を出したからには、何か――言わないと……。
「不二先輩って――」
 何か……何か、何か!
「いつもあんな顔、なの?」
「……へ?」
「え?」
「……顔?」
「…………」
「…………」
「……ごめん、その……聞かなかったことに……」
 ああもう、馬鹿な事を口走った……。
 案の定、桃城くんはぶはっと吹き出した。
「何、、不二先輩の顔、気になるのか?」
「いや、その、ちが……」
 恥ずかしい。恥ずかしくて顔もあげられない。
「聞いておいてやるよ、不二先輩に」
「え! いや」
 タイミング良く、始業の鐘が鳴って。
 これまたタイミング良く先生が教室に入ってきてHRが始まってしまった。
 桃城くんは白々しく、先生来たぞと教壇を指し示す。
 わたしは前を向かざるを得ない。
 なんとかして桃城くんを阻止しないと……。
 そんな思いを阻むように、なぜか今日一日、桃城くんとサシで話す機会はなかった。

 理科室の掃除当番が終わり、急いで教室に戻ったが、目的の桃城くんの姿は無かった。
「桃くんなら張り切って部活に向かってったよ。妙に嬉しそうだったけど」
「――嬉しそう……」
「うん」
 桃城くんを目撃したクラスメートのありがたくない報告を聞いて、わたしは目眩がしそうだった。
 本気で聞くつもりなんだ。不二さんに!
「……ちゃん」
「…………」
「目つきやばいよ……?」
「そう、ごめんね」
 自分でもきりきりと眉尻がつりあがり、視界が狭まるのが分かる。ただでさえ仏頂面なのに、自覚できるくらいとは相当だろう。
 わたしは怖がる友人に礼を述べて、自分の鞄を引っ掴んで早足で教室を飛び出した。
 廊下も走るわけにもいかない。正面玄関を出ても走るわけにいかない。なにより目立ってしまうから。
 早足でテニスコートへ向かう。
 何人いるのか知らないが、大勢の部員が今日も練習に励んでいる中、わたしはなるべく遠くから桃城くんの姿を探した。
 どこだあの馬鹿男は!
 必死でテニスコートを見回すわたしは、背後から近付く気配にまったく気付かなかった。
「何してるの?」
「うわあ!」
 いきなり肩を叩かれ、耳元で囁くように話しかけられて、わたしは反射で飛び上がってしまった。
「ふっじ、……!」
「うん、不二」
 あの顔だ。
「――せんぱい」
「うん?」
 ――ここで桃城くんどこですか、なんて聞くのも間抜けだ。かといって、わたしはこの不二さんに何を言えるだろうか……。
「誰か探してるの?」
「え、はい――いいえ」
「え、どっち?」
「もう、いいんです」
 どうでも。
 なんだか急に脱力が……。
 桃城くんが不二さんに何を言ったって関係ないじゃないか。
 どうせわたしと不二さんなんて関係ない……単なる同じ学校に在学しているだけの他人だ。
さんて時々そんなふうに脱力感たっぷりに話すよね」
「え」
 ――また。
 わたしのことを知っているようなことを言う。
 ここまでくると不思議と言うより怪しい。
「あの」
 意を決して口を開いたそのとき。
「あーーこんなとこまで来たのか」
「桃」
 不二さんがにこにこと振り向いた。
 諸悪の根源の登場だ。
「睨むなよ。まだ何も言ってないぜ」
「睨んでないけど」
「桃がやましいことあるから睨まれてるように感じたんじゃない?」
「そりゃ酷いっすよ、不二先輩……」
 大げさに肩を落とす。
 やっぱり彼は、どこでだって一つ一つの行動が大きいんだなぁ、なんてぼんやりと考えていると、桃城くんが大きな爆弾を投下した。
「不二先輩、いっつもには甘いっすよね〜」
 ―――……え?
 『いつも』……?
「そ、れ―――」
 喉が渇いて、巧く発音できない。
 妙に掠れた声が、二言目で止まった。
 無意識に握りしめた手のひらが汗ばんでいる。
「おーい、桃ーっ。次はお前の番だぞー」
 テニスコートの中から、右頬にバンソーコーを貼った人が桃城くんを呼んだ。
「今行きまーっす」
 その人に大声で返事をして、桃城くんは「それじゃあな」と片手をあげてコートへと戻っていった。
 不二さんは笑顔でそれに応える。桃城くんを呼び止めようとしたわたしの手は、虚空で止まって、そのまま所在なげに身体の横へと戻ってきてしまった。
 ――― ああ、もう、どうしたら……っ
さん?」
 項垂れてしまったわたしに、怪訝そうな声がかけられた。
 ―――なんだかもう、面倒になってしまった。
「……不二、先輩?」
「ん?」
「どうしてわたしの事知ってるんですか?」
「え? あ、そっか」
 不二さんは一人で疑問に思って一人で解決してしまったようだ。
「なにがそっか……」
さんは僕の事知らないんだっけ」
「…………」
 知らないなんて、そんな面と向かって言えるわけが無い。実際知っていると言うほど知っているわけじゃないし。
 テニス部の、レギュラーで、天才なんて言われてて。
 わたしが知っているのはそれくらいで。
 むしろそんなことくらいしか知らないわたしのことを、どうして不二さんは一方的に知ってるのか。
「写真部でしょ」
「は」
「このあいだコンクールに出品してた」
「あ、ああ……」
「僕、写真趣味なんだ。時間があればよく展覧会とか見に行くし」
 ――なるほど。
 ふたを開けてみればなんてことはない。単純な理由だったのか。
「桃とたまたまそんな話になったときさんの話題が出て、ちょっといろいろ教えてもらった」
「いろいろ――教えて?」
 どうして教えてもらう必要が……。
「そこんとこは秘密で」
 あやしい……なんか、嫌な予感がする。これはまた桃城くんに問いつめないと。
さん、写真上手だよね」
「――そうでもないです」
 そもそも上手い下手を競うものでもないし。
「ただ、好きなだけですから」
「それがいいんだと思うよ」
 不二さんはあいかわらずにこにこ笑っている。
「僕は、さんのフィルターを通した目線が好きだから、上手だと思ってる。ファンなんだ」
 ファン……? わたし、の……?
「あ、それは……」
 胸元から喉、顔へと体温が上昇する。そんな真正面から、なんてことを……。
「ありがとうございます」
 嬉しい。
 嬉しいんだ、わたし。
 わたしは。
 わたしが自分の目で見たものを切り取るのが好きで。
 そこにはわたしの知らない世界や人たちが切り取られていて。
 それを見るのが大好きで。
 それを残しておけたらいいなと思ったのが写真をはじめた理由で。
「ありがとうございます……嬉しい」
 わたしの知らないところでわたしが好きなものを好きと言ってくれる人が。
 こんなに嬉しいとは知らなかった。
「どういたしまして」
 わたしは、なんだかすごく久しぶりに笑った。
 不二さんの笑顔につられるように、笑った。
さんの笑顔って久しぶりに見たよ」
 ――え?
「不二―ぃ、戻ってこいー次はおまえだーぁ」
 先ほど桃城くんを呼んだのと同じ人が、今度は不二さんを大声で呼んだ。
「はーい。じゃあね、さん」
 にこやかに去って行く不二さんの後ろ姿を見ながら、わたしはまた呆然とした感覚を味わっていた。
 ……いったい、どこで、あの人は。
 久しぶりと言えるわたしの笑顔を見たと言うのか。
 新たに湧き出た疑問に答える人も無く。
 わたしはしばらく立ち尽くしていた。
 いつか――このわたしを知っていると思われる彼の事を。
 わたしが知る事があるのだろうか……?

 

2003.08.22

 

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